秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

生きたその人にしかない

広尾から乃木坂に事務所を移して、20年。来年の2月6日で創業25年になる。
 
その前の初サラリーマン生活が約5年。都合30年、映像の企画制作にかかわっていることになる。また、その前は、学生劇団時代もふくめて、10年は芝居漬け。
 
40年も舞台や映像、CM、イベントにかかわり、俳優やスタッフと格闘し、社会・教育問題の仕事にかかわり続けてきた。
 
その合間に、地域コンサルもやれば、尾崎豊の作品もつくり、ヘアヌード写真集のプロデュースもやりw そのためのシュールな短編小説も書き、果ては教育書籍まで上梓しているw

 
あまりに多くのことがあり、あまりに多くの困難もあり、そして、あまりに幸せな出会いもあった。だが、いまも続いているものはひとつもない。時々に、新たな出来事が生まれ、新たな困難に遭遇し、そして、新たな出会いに恵まれてきた。

私の仕事の志向や取り組む方向性が時節、時節で変わるから、人のつながりも、仕事のつながりも、活動のつながりも変わっていく。それは私の志向や方向性というのもあるが、周囲の人たちにも変化があるからなのだ。

 
自分の選択もあるが、それ以上に、人との出会いで時々の仕事もかわれば、取り組みも変わってきた。

また、私が歳を重ねるように、周囲も齢を深めていく。あるいは、いろいろな生活変化から、その場を去っていく人もいるだろうし、無念ながら、その途上でいのちを落とす人もいる。

同時に、次を担う人たちが、私や私たちがいた場所に登場し、そこを自分たちの場としていく。当然、時間とともに、すべては変わり、そのときが果てしなく続くことはない。

今日、高倉健さんが亡くなった。東映の京都太秦撮影所で初めて仕事をしたとき、だれも使わない楽屋があると知った。
 
そこには、東映時代劇を支えた、美空ひばりなど時代劇スターの主役クラスの、まだ存命の方の楽屋がそのときのまま残されていた。そこに、健さんの楽屋もあった。
 
いつでも帰ってきてください…。撮影所スタッフの映画人らしい、時代遅れと笑われる、心遣いだ。
 
だが、健さんもそうだが、そこに戻る俳優はいない。あのときの時代は、あのときのものなのだ。いまという時間からそれを懐かしむことはできても、あのときの時間をいまに生きることは、だれにもできない。

また、その記憶をすべてに共有できるわけでもない。いつかは忘れられ、なにかの資料や文献、映像という作品の記憶として残されていくだけのことだ。

ラフカディ・オハーンは、「日本の面影」で、消えゆくものの美しさにふれている。それは季節や風景だけでなく、人の記憶もそうなのだ。
 
オハーンは、ああ、あれは先月他界しました…といわれるような終り方を望んだ。なにかを深く書き残したり、なにかにしがみつくのではない消え方を日本の美と感じたのだ。
 
あのときはあのときのままで終わる。そして、いまのあのときは一瞬の光陰だ。ふりかえれば、わずかな時間でしかなく、その鮮烈な記憶は、生きたその人にしかない。

ご冥福をお祈りします。