秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

未知数

状況を見ながら、付き合う相手やつながりを考えるという人たちがいる。
 
自分に利するか、利さないか…。それだけを基準に人と付き合う人というのがいる。
 
大小の違いはあっても、それは、人として当然の駆け引きだし、打算だろう。
 
だが、結果的に、それは寄らば大樹の陰をつくり、同調圧力の源泉になる。

確かに、孤立しても、我が意を貫くというのは、だれにでもできることではない。しかし、だからといって、風見鶏のように、あっちにもいい顔をし、そっちにもいい顔をするというのは、人としての品格にかける。
 
人は、不安だ。確信が持てる人はそう多くない。だが、それが当然のように、すべてにいい顔をして生きるというのは、どんなにつらいことだろう。しんどいことだろう…と私は思う。

人の信頼やゆるぎないサポートというのは、そこには生まれない。自分が打算で人をみれば、相手も打算で自分を見る。自分が人を利用しようと思えば、相手も自分を利用しようとする。
 
大学の教育原理の授業は、それを履修しなくては教職がとれないから、仕方なく履修した。だが、その担当教授が、あるとき、こんなことをいった。
 
「青春というのは、たくさんの選択がある中で、これしなかないといろいろなものを捨てる時代なのだ。人が生きていく上で、これもあり、あれもあるという人生はない。子どもの頃はそれが許されていても、大人になるということは、子どもの頃、無限にあった可能性を選択し、自分はこれで生きていくのだという選択をする時代なのだ…」

すべてそのようにうまくいくとは思わない。だが、不安や心配から、これで行こうという決断ができないということは、人との関係においても、人生の道すじにおいても、あるいは、愛を育む上においても、実りない人生を選択するということでしかない…と私は思う。

だれにだって、不安や心配はある。だれにだって、疑心暗鬼や付和雷同はある。
 
だが、その中で、自分はどういう人生を生きようと思うのか、何を、だれを拠り所として、その道を歩むのかは、いずれ、どこかで決定しなければならないことだ。
 
たとえ、それが後に過ちであったとしても、決意した自分がいる以上、決して後悔にはならない。どのように、そのために犠牲を払ったとしても、それは悪い記憶や足跡にはならない。

だれかの言葉やだれかの意見、だれかの注意やだれかの警鐘…。そのどこに真実があるというのだろう。

自分の心に照らせば、何がかけがえなのないもので、何が大切なものかは、だれにでもわかる。
 
それに気づけないとしたら、その人の人生が、確かなビジョンを持っていないということだ。確かなビジョンを持っていないとうことは、夢を実現する力もないということだ。
 
人の可能性や人の未知数を信じていない人は、自分の未知数にも気づけない。