秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

先生たちよ

人の痛みや言葉にできない苦しみというのは、それがだれにでもわかるわけではない。

なにげない表情のふとした谷間、言葉尻にある、どことない溜息…。笑顔のどこかにある頑なな部分…。それを見逃さず、かといって、あえて言葉にもせず、何事もないように、語るその空気の中で、人の思いを読み取っていく…

あるいは、激しく怒りの言葉や恨み言や愚痴を言い続ける表情や態度、言葉の端々に垣間見える、孤独や不安、焦燥や嘆きを相手の感情に同化せずに、見取る…

そうした観察眼や洞察力がだれにでもあるわけではない。

だが、私のような古い人間は、世に、「先生」といわれる者は、その感覚を鍛錬し、磨くことが生業であり、使命なのではないかと思っている。

決して、「先生」を神格化するわけでも、「先生」は、尊敬される人間たれといっているのではない。だが、世間から、そうやよばれる以上、決して、「先生と呼ばれるほどのバカはなし」などと、嘲りの対象になってはならないと思っているのだ。

ある専門的な知識や技術を持ち、それゆえに、仮に世間の常識からはちょいと逸脱したり、奇異であったとはしても、人や物事の観察、洞察については、それが人より秀でていてもらいたい。

批判されようが、賛同されようが、あるいは無視されようが、「先生」の先生たるゆえんのなにかは、世間の基軸を生み出す対象となるからだ。人はその基軸を見出すために、ある意味、先生に頼っている。その自覚がほしいというだけのことだ。

クールビズ参議院の国会で取り入れる提案の中に、自民党が点数稼ぎだろう。沖縄の礼服、ハワイのアロハ、かりゆしを入れた。ところが、民主党がこれに反対。結局、採用されないことになった。

民主党にすれば、自民党提案で、しかも、安保法制でこれから厳しい議論をするところで、自民の小手先の点数稼ぎに同調、迎合してはならない…などという次元の低い思惑があったのかもしれない。ひとり沖縄だけをえこひいきするわけにはいかないという、一見もっとも理屈だ。

だが、ここに、自民だ、民主だという駆け引きがいるのか。戦後70年、自民であろうが、なかろうが、同じように、沖縄市民を犠牲にして、いまも現に、その犠牲によって、国の安全保障が成り立ち、その上に、自分たち国会議員の生活も、国民の生活もある。

どういう思惑にせよ、国会で議員が沖縄の生活衣装かりゆしを着る。そこには、大きな意味がある。沖縄は特別なのだ。他の地方とはまったく違う重荷を持っている。ひとり沖縄えこひき、大いにいいではないか。それくらい当然のことだ。それによって、国会中継や報道を通じて、沖縄を無関心な国民に意識させることもできる。

どっちがどうだの、まさに、ケツの穴の小さい議論。かりゆしを着て、沖縄のための議論を大いに自公にぶつければいい。

気持ちというのは、ファッションからだってつくられるのだ。先生。それくらいのこと、理解してください。点数稼ぎの先生も、それがいやだと沖縄の痛み、苦しみを斟酌しない先生も。

だれのための政治ですか。だれのために先生なのですか。みなさん。