秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

基準

自分の物差しで測れないものと出会うと、人は、屁理屈や手前勝手な理由をみつけ、どう見ても、どう考えても間尺に合わないのに、無理やり自分の物差しに合わせようとする。

自分の物差し、頭脳、あるいは想像力を越えたものを理解できないために、自分の尺度の範疇に引きずり込み、その狭い中で論評・批判したがるのだ。

だが、それは論評や批判には遠く及ばない、下世話な悪口や噂話であったり、与太話であることの方が多い。

そこにあるのは無知さだ。低俗と無知は常に一体。では、そうしたありふれた低俗さが氾濫するのはなぜか。

自分の物差し、他人の物差し、いろいろある物差しではない、それらを相対化、対象化できる基準がないからだ。基準を見つけ出す、あるいは、すでにある基準を知ろう、学ぼうとしていないからだ。

いま私たちの社会、私たちが生きる世界は、個々の物差しを相対化、対象化するための基準を見失っている。世界各地で起きる民族紛争や宗教を背景とした内戦や紛争も、国家間の緊張も、テロも、すべて、それに起因している。

形而上の価値が現実を支えるという社会や国、世界の構図が変わり、普遍的な基軸となるもの、なりえるものへの不信が広がっているのだ。イノベーションパラダイムの転換といったことは、だれにでもいえるが、基準なきイノベーションパラダイムの転換は、ある者を富ませ、ある者を苦しめる。

普遍的な基準がなければ、そこに偏りが生まれるのはごく当たり前のことだ。そして、その偏りは、生み出す必要もない緊張や対立をつくる。


憲法調査会で、政権の推薦する憲法学者を含め、3名の学者が現在議論されている安保法制は憲法違反の可能性がある、あるいは、違反であると断言した。

政権は慌てふためき、学者のいうことに現実味はないと、基準のない人々が基準を語れない恥を恥とも思わない。

ごく当たり前の感覚、ごつ普通の教育を受けていれば、どう転んでも内閣議決だけで変わった憲法解釈とこれをもとに生まれた安保法制が違憲であることはわかっていることだ。近代法を学んだ者、ましてや議案を生み出す国会議員であれば、当然理解できていなければいけないことだ。

それすらも、国の政治の、国会討論の大きな話題なる。それ自体、自分勝手な物差しで政治が動かされている事実が見える。

国の基準を基準とも思わない人たちが、国の政治を担っていることのなんと恥ずかしいことよ。