秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

先生のいない国

政治家や弁護士、医師や大学教授、教師といった公共性の高い職業従事者は、かつて先生と呼ばれた。当然、いまでもあちこちで先生と呼称されている。

小説家や詩人、美術家、クラッシックの音楽家、舞台演出家、脚本家、評論家も、とりわけ公共性が高いわけではないが、だれもがかかわれるわけではない職業であるということもあってか、先生と呼ばれることが多い。

あるいは、カルチャーセンターなど、料理や手芸、教養講座といった場で人に何事か教える人は先生と呼ばれる。
 
何を隠そう、こんなオレでも、かつて地域コンサルティングに関わっていた頃は、地域の人と相当に親しくなるまで、先生と呼ばれ、親しくなってからも、会議の場では相変わらず先生と呼ばれていた。

近場の行きつけの蕎麦屋では、大女将が拙著の教育書を買ってくれたこともあってか、いつからか、大女将だけではなく、従業員全員が監督ではなく、先生と呼ぶようになってしまった。

だが、不思議と映画の世界にいると、だれも先生と呼ぶ人はいない。多くが監督と呼ぶ。キャリアのある女優さんなどで、演出をつけた方は、昔からの慣例で、幾人か先生と呼ぶ場合があるが、それはわずかだ。

水上勉だったか、銀座に遊びにいくと先生、先生と呼ばれるものだから、「ぼくはキミたちに何も教えた記憶がない。先生と呼ぶのはよしてほしい」といったとか、いわなかったとか…

昔から、庶民の間では、「先生と呼ばれるほどのバカはなし」という言葉がある。つまりは、いまに限らず、先生には、名前だけの人が多かったということだ。

ごく限られた人だけが、いまでは政治家や弁護士、医師や大学教授、教師になるわけではない。そのことを人々はよく知っている。
 
また、人々の求める学習の多様性と拡大によって、〇〇先生という存在が有象無象、世間に溢れている。中には、怪しいキャリアの人物もいれば、自ら〇〇学の先生と名乗るいかがしい奴もいる。同時に、〇〇資格というのも多くなり、先生であることの基準が崩壊した。

それにつれて、信頼性や尊敬の対象になっていた、先生という価値も瓦解している。

それは、広い意味では、社会の規範や基軸となりえる具体的職業や人物が社会から喪失しつつあることを意味している。

本来、「先生」というのは、利他を前提に、自分の生活や名声を犠牲にしても、他者のために、あるいは地域のため、社会のため、国のため、持てる知識と能力を費やす人だった。
 
あるべき「先生」のない社会、国というのは、その意味で憐れなものだ。あっちもこっちも「先生」だらけという社会、国というのも信用がおけない。

いまや求められているのは「先生」という存在ではなく、知識や能力、教養を持ちながら、杓子定規に「先生」という位置にいようとしない人なのではないか。それを捨てられる人ではないかと思う。
 
人々は、「先生」のいない、「先生」を越えた人たちのいる、政治、教育、生活、地域、国を求めている。