秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

一瞬の閃光

空しさに襲われたり、無力さを痛感したり、自分の能力の限界に苛まれたり…

どんなに物事が自分の願い通りに進んでいても、何事か、自分が目指しているものが実現していても、そうした思いが深くなるというときがある。

私のような仕事は、そこにいる人の声を聴き、そこにある願いをもっとも最良で、素敵な形にして、その人たちができない形にしてあげることだ。

創作というのは、自分を中心にして生まれるものではない。だれかの、どこかの声に動かされて誕生するものだ。

井上ひさしがよく口にしていたが、作品は自分が書いているのではなく、だれかに書かされている。井上ひさしに限らず、物書きといわれる人はよくそう言葉にする。

舞台や映画も、これを作品にしたいと願うのは、自分の意志がそこにあったというより、なにかに気づかされて、突き動かされて、そういう思いになるということの方が多いと思う。

イベントにしても、それをやることで伝いたい思いを持つ人たちがいる。思いを言葉や形まで固められず、それでも伝えたい願いがそこにある。それをどうその願いにして、形にするか…それが私たちの仕事だ。

だが、表舞台を生きる人、生きなければならない人たちの影で、裏方として、いろいろな思いをこらし、自分の持てる力と技術を駆使し、新たな形として実現していくほどに…

それが自分が描く完成性に近ければ近いほど、周囲の人に喜ばれるほど、そうした空虚感がいつも私を襲う。

それは、おそらく、私が消えていくものをつくることにこだわっているからだ。

私が舞台をその出発にしたのも、それが一回性のものだったからなのだ。夜に咲く花火のように、人々の残像や薄れていくであろう、ゆがんでいくだろう、記憶の中にしか存在しえないものだからだ。

存在しえない普遍性をそこに求めれば、当然、人は空虚感とともにしか生きられない。人の一生がそうであるように、時代がそうであるように、忘れらず、ゆるぎなく存在し続けるものは、この世にない。

一瞬の閃光を見せることしか、よすがはない。だが、自分も納得でき、人にもそう思える一瞬の閃光は、そうたやすくは手に入らない。

研ぎ澄まし、無心に…その狂気でしか、示すことのできないものがある。その力のなさに、また、空しくなる。