秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

インテリジェンス

まちがっていることは、まちがっている。正しいことは、正しい。

そこには個人の物差しもあれば、そうではないものもあるだろう。だが、私は、いままでの人生で見聞きし、体験し、ふれあってきた人々の姿、自分の学びの中で得た知識や情報のすべてを動員して、あくまでもそれにこだわりたいと考えている。

もちろん、学習の度合い、経験の差異、学びの浅薄、深慮がそこにはある。だから、人のそれを全否定はしない。そこに愚かさや稚拙さや未熟さ、狭隘さ、偏狭さ、盲信があったとしてもだ。

私自身、正論の場で、議論に屈したことはないが、市井の課題を生きる人たちの声や姿に多くの学びがある。自分の無知さや未熟さを謙虚に反省させられることも、多くを教えられることもある。

だから、全否定はしない。しかし、そうした努力や挑戦もせず、わずかばかりの人間関係の中や自分の居心地のいい世界の中で、したり顔に、学びがあるがごとく語る人間には、徹底的に議論する。

偏狭さは世界を歪める原動力になるからだ。

主義主張や政治的、経済的立場は違っていても、そうではない広がりを持つ人とは、じつに建設的で、妥協点や共通点を探る議論ができる。弁証的議論というのは、決して好きではないが、どこを見て、だれのために、何のためにの基本に私心のない人との議論は、どんなに立場や思考が違っていても、不愉快にはならないないものだ。

これを、英語では、インテリジェンスという。

どうもいまの世の中、反○○、否○○が多すぎる。政治家も識者といわれる無知な人間たちも、それをすることで、テレビや講演の場をえることを知っている。マスコミもそうした簡単な構図が大衆の受けるからと垂れ流す。

だが、世の中の現実は、左様に簡単ではない。ところが、マスコミも大衆もインテリジェンスある議論や意見交換とは何かを知らない。知らないばかりか、インテリジェンスがないゆえに、面倒な議論から遠ざかり、大勢に流される。

左も右も中間もありはしない。要は、だれを見て、だれのために、なにを目指して、なにを議論するかなのだ。

当然、その基準になるのは、幸せな人でも豊かな人でも、調子のいい人でも、要領のいい人でも、小賢しい人でも、狡猾な人たちでもない。

いまこのとき、一番、苦しんでいる人であり、悲しみの中にある人であり、人の世の不条理と理不尽さに痛めつけられている人たちのことだ。

インテリジェンスのない国の、インテリジェンスのない政治家たちが、財界人たちが、民衆が、さも、インテリジェンスがあるがごとく、今日も、世界を国を地方を、原発を、福島を、沖縄を語っている…


どこを見ている。結局、てめぇかよ。