ランナーズハイ
舞台にしても、映画にしても、なにかのプロジェクトにしても、これで終わっても仕方ない…
そんなギリギリのところでやってきたような気がする。
会社勤めや事業をスタートしてしばらくは、創作や社会的プロジェクトから距離を置いていたし、置こうともしていた。
そんなギリギリのところでやってきたような気がする。
会社勤めや事業をスタートしてしばらくは、創作や社会的プロジェクトから距離を置いていたし、置こうともしていた。
それよりも生産性や効率、質の向上によって、組織や自分の事業が成果を上げること、つまりは売上をあげ、それによって周囲の評価をえる道を歩んでいた。
しかし、泉谷しげるの「春のからっ風」ではないが、私が、舞台や映画やなにかのプロジェクトから距離を置いていても、どこからか、声が聞こえてくる。歌が聞こえてくる。
それは、本当に自分が目指していることなのか、本当に自分がやろうとしてきたことなのか…
「だれが呼ぶ声に答えるものか…」。
「だれが呼ぶ声に答えるものか…」。
あの歌詞にあるように、そうやって、なにかに耳をふさぎ、目を閉じ、口を閉ざして、いまある多忙さをいつか心地よく思い、そして、その成果として地位や金銭を得ていくことの快感にすり替えて…自分が幼い頃、あるいは、思春期の頃から求めていたものから、苦しいから逃げているだけなのではないか…
そんなホントを語る声と歌が聞こえる。すると、なにかに取りつかれていたようなそれまでの時間が突然、空虚になり、いつかそこから、また、あの声と歌の世界へ引き戻されている。
結局は、これで終わってもいいという、タイトなところ、ゆとりのないところで、なにかをつくりだし、生み出し、自分を追い詰めることを自分でやっている。
だが、そんな決して、安心でも、人から立派といわれることもない、計算のないことばかりをやっていても、これで終わってもいい…と思えるほど、大変でも、心地いいのだ。
それは人としてどうか…と思う。堅実さや着実さ、そのための計画性や計算といったことがあまりに遠すぎる。
ところが、ごくいくつかだが、その中でやっていて、創作においても、プロジェクトにおいても、ギリギリを逆転するように、突然、広い世界が眼の前に広がるときがあるのだ。
そんなホントを語る声と歌が聞こえる。すると、なにかに取りつかれていたようなそれまでの時間が突然、空虚になり、いつかそこから、また、あの声と歌の世界へ引き戻されている。
結局は、これで終わってもいいという、タイトなところ、ゆとりのないところで、なにかをつくりだし、生み出し、自分を追い詰めることを自分でやっている。
だが、そんな決して、安心でも、人から立派といわれることもない、計算のないことばかりをやっていても、これで終わってもいい…と思えるほど、大変でも、心地いいのだ。
それは人としてどうか…と思う。堅実さや着実さ、そのための計画性や計算といったことがあまりに遠すぎる。
ところが、ごくいくつかだが、その中でやっていて、創作においても、プロジェクトにおいても、ギリギリを逆転するように、突然、広い世界が眼の前に広がるときがあるのだ。
そんな計算のないところで…と、自分でも自己否定に襲われながら、しかし、ゆとりや余裕の中ではえられない、なにかをみつけることがある。
ランナーズハイのように、それを知ってしまうと、また、同じように、遠くの声を聴かないようにと、走り出す。