秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

火宅の人

大切なものを大切にする。大事なものを大事にし、守り抜く…。その当たり前のことが、じつは簡単なようでとても難しい。

大切なもののありがたさや大事なもののかけがえのさを日々の暮らしの慌ただしさや煩雑さの中で、棚上げしたり、見失ったりするからだ。

また、ほんとうに大切なものの大切さ、大事なものの大事さが、あまりに当たり前にそこにありすぎて、気づけないということもあるだろう。それが当たり前過ぎて、わずらわしくなるときさえ、人にはある。

人はなにかを目指すとき、大切にするもの、大事にするものを忘れる。おろそかにしたいわけではないのに、結果的におろそかにしかできない場合もある。

そして、いつか、なにかを目指すためには、それもやむえないことだと、大切なもの、大事なものを粗末にしている自分に言い訳し、それがやがて、当たり前になっていく。

物事を見失うということは、そういうことなのかもしれない。

平和であることの大切さ、大事さもそうだろう。いつもそこいるのが当たり前としている家族や親、友人、知人もそうかもしれない。いまこうして過ごす毎日も当たり前のようにそこにあると人は思っている。

それは同時に、その当たり前にある生活を、見ず知らずのだれかが支えていてたり、自然がもたらしたりしているこを見失うことかもしれない。

私自身もそうやって日々を重ね、たくさんのものを見失い、本当に大切なもの、大事なものをぞんざいに、粗末に、そしておろそかにして生きてきた。

きっと、大切なもの、大事なものをそうしないためには、なにかの目覚めやヒントがいるのだろう。

苦しみが人にあるのは、神仏がそれに気づかせるための方便=慈悲なのだ…という文言があった。人の死がいろいろなことを遺された人間に教えるのもそうなのだ。

週末の土曜日、ある葬儀告別で父と同世代の94歳の方を見送った。母が亡くなったときのことを思い、存命ながらもう2年顔を合わせていない父のことを思った。
その数日前には、久しぶりに家族の顔を見た。

かけがえのないものから、遠く離れ、私は、だが、まだ、走ろうとし続けている。仮に、そこに、いろいろな障害や不具合や…それらが導く、苦しみがあっても。

火宅の人は、なかなか、火宅から出て行こうとしていない…