秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

私の悔恨

ひとつの組織、ひとつの仕事、ひとつの趣味…というのを私は生きて来なかった。その分、じつに様々な組織、仕事、趣味とかかわってもきた。
 
映像やイベント、舞台や映画にかかわる立場だから、一層そうなった。なにかをつくりだすためには、あるいは、依頼を受けて、それを形にしていくには、あたかもそれが自分の組織、仕事、趣味のようにかかわらなければできないからだ。
 
おそらく、最もひとつにこだわり、それについて他人と会話していても引けを感じないのは、演劇の分野だけだ。
 
ただ、演劇という世界、分野は、ただ、演劇だけを学べばいいというものではない。人という生のままの存在を表象とする演劇では、ほぼこの世界にあるすべての学術や学問の、すべての芸術の知識が必要になる…と私は思っている。
 
演劇を体験し、実践し、創作し、舞台で表現するという出発は、だから、すべてのことに生かせるし、すべてのことが演劇に通じる。
 
かつて、社会学者でもあり、演劇人でもあった、山崎正和が「演技する精神」という名著で、人というものが日常においても芝居空間と同じような演劇的時間を生きていることを射抜いたように、人はすべからく演技者であり、作家であり、演出家なのだ。

人からの評価や評判を気にし、成果を追い求めるのも、それを見る観衆がいることを意識しているからにほかならない。
 
友人に、家族に、身近な人間に認められたいという自己承認の願いは、やがて、成長するにつれて、多くの他人に認められたいという社会的承認の欲求へと拡大する。

それも、組織や集団に認められたいための演技を生み出す。また、それを社会は要求する。社会が求めるいい子像が増大している要因もそこにある。

個人に認められたいのではなく、その個人が身にまとっている属性、その人間の所属や肩書や地位、立場といった社会性に対して評価をえたい…つまり、承認をえたいがために、人は、その場における、その人にとってのよき演技者であろうとするのだ。

そして、よき演技者であるためのストーリーを自らつくり、かつ、自ら演出する。
 
ただ、問題なのは、よき演技者の演技とは何なのか、そのためのストーリーは何なのか、そして、それを具現化する演技とは何なのか…だ。
 
人は、その問いの中で、組織や集団に認められたい欲求とそれにそぐわない、そぐえない自分との間に葛藤する。
 
つまり、そこでいい子でいられたとしても、そのいい子は本当に自分なのか、あるいは、いまそこにおいてはいい子と承認されていたとしても、ほかでもそうなのか…という不安だ。

そして、もうひとつ。だが、そのいい子であろうとすることを否定したり、やめたりしたら、生きていく糧をえられないだろうという現実だ。確かに、場合によって、社会からスポイルされるだろう。やんわりと排除されるかもしれない。
 
それが、多様な演技を怖れされ、ひとつの演技、それを承認する背後に属性のある人間への従順へと人を誘う。不安を打ち消せる何かをそこに探して…。そこになれば、その代償となる何かで補完して…。
 
いまを生きるために、それを選択することはやむえない。そうではない挑戦や冒険を孤独の中で続けることは容易ではないからだ。

演技にはいろいろな役がある。だから、偽りであろうと、従順さを生きる選択もひとつの演技者の道だ。逆に、頑なにそれを拒むのも、ひとつの演技に過ぎない。だが、いずれも、それが役として成立するのであれば、それでいい。
 
ただひとつ。そうしてひとつの演技だけで、果たして人は生きられるのか…
 
いろいろな役が舞台にも、映画にもあるように、現実の私たちの姿も、ひとつではない。豊かな舞台や優れた映画がそうであるように、やはり、役はいくつもこなせた方がいい。

それができなかった、私の悔恨だ。