秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

けじめのない、いま

今日、相馬の友人が毎年参加しているという高幡不動尊新撰組まつりに顔を出してきた。

そこへ向かう京王線の電車の中でのことだ。

中年の女性に支えられて、杖をもった高齢者の女性の方が乗車してきた。すると、先に乗り込んだ中年の女性ふたりが、彼女の姿を見ると、躊躇せず、席を立って、譲った。

席を立とうとした私より動きがすばやかった。こうしたとき、中年男性よりも中年女性の方が動きがいい。

席を譲られた女性もよかった。いえ、大丈夫ですから…といいながら、席に薦められて座ると同伴の介護の女性に、私ってそんなに年寄にみえるのかしら?と一言。同伴の女性が、年寄じゃないと笑いながら返す。

譲った女性たちもすばらしいが、譲られた女性のこのひょうきんさもいい。きっと、杖を持つ高齢の女性は、席を譲られなくても、それを当然として立っていくつもりだったのだ。自分はまだ、若いからと確かめるように…。

人のつながりや配慮といったものの足りなさに、いらだつことやおいおい、と怒りさえ覚えることがある。だが、こうした光景があるのだ。

だれか困っている人がいれば、自分にできるなにかを行い、同時に、だれかを責めるのではなく、自分でしゃきっとしなくてはと居住まいをただす。その両方に、生きる上での大事なけじめのようなものがある。

いま私たちの家庭、地域、社会、国、そして世界にはいろいろな問題や課題が山積している。

沖縄ひとつとっても、福島ひとつとっても、あるいは、隣国との関係や欧米とのつながりのあり方においても。

一方で、世界のあちこちで、国内のあちらこちらで、自然災害や環境の変化、いわば地球の悲鳴が聞こえている。

だが、そこに必要なのは、こうすれば自分たちが有利になる、都合がよくなる、もうける、評価が上がるといったものではない。

今日、私がまじかに見た風景のように、それぞれに、あるべきけじめを持つことが先なのだ。いいかえれば、あってはならない、ご都合主義の理屈をでっちあげることではない。

道理にかなわいことをすれば、けじめはつかない。自分や自分たちの、いまの有利ばかりにとらわれていては、けじめは消える。

おかしいことをおかしい。まちがっていることをまちがっている。こうした方がよりよいことをそうさせない。それは、過去から何も学ばず、いまの課題に真摯にならず、未来の世代や人々の幸せをなにひとつ考えず、想像力のない、創造力もない、けじめのない、いまをつくっているだけのことだ。

戊辰戦争明治維新の問題を指摘し、新撰組にこだわりを持つ友人もきっとそれが心の中にあるからだろう。