秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

シャレじゃない

ひとつひとつに、時間がかかっても、けじめをつける。あるいは、けりをつける。それは、どのようなことにでも同じ。

人には、それぞれ事情がある。人には、それぞれ心の弱さもある。だから、だれでも同じように、瞬時にけじめやけりがつけられるわけではない。けじめをつけられずに、ふらふらすることもあるだろうし、曖昧にしたまま、逃げることも、ごまかすこともあるだろう。
 
だが、どこかでそれをしなければ、人を失うことの方が多いと私は思う。人を失うとは、同時に自分を失うことだ。自分を失うとは、人としての恥を忘れることだ。これほどに、人間として悲しいことはない。
 
もちろん、けじめやけりといっても、すべてがたいそうなことばかりをいうのではない。部屋の掃除ひとつ、洗濯や食事の後片付け…それもけじめやけりを付けるもののひとつだ。

世話になった人に礼をいうのも、いろいろあっても、最後には、ありがとうというのも、けじめやけりのひとつだろう。なにかを選ぶのを躊躇していて、選んだあとに、躊躇していた自分を詫びるのもそうだろう。
 
けじめやけりというと、すぐに、終わりにすることだと思う人がいる。確かに、けじめやけりをつけることで、終わることは多い。だが、それで終わるものは、その程度のけじめやけりでしかなかったということだ。
 
けじめやけりが必要なのは、それをすることで、物事をよくするためのものだ。人との関係であれば、それまでの時間をいいものにするためのものだ。
 
竹がそうであるように、ひとつの節があるから、竹は伸びる。しかも、まっすぐに。それがなければ、剣道の竹刀になるような竹はできない。弓道の弓のようなたおやかさは生まれない。

だが、いまは、そのけりやけじめを時間がかかっても、つけられる人が少なくなっているような気がする。
 
ラグビーには、ノーサイドという言葉がある。勝敗はあっても、試合が終われば、敵味方もない。勝ち負けもない。共に、その時間、奮闘した互いへの尊敬と尊重、敬意があるだけだ。

試合途中、ラフプレーがあろうと、接点でえぐいやりとりがあろうが、互いに勝ちたいがためにあらん限りのことを出し尽くす。それでも、最後には、ノーサイド。でなければ、人として悲しいではないか、虚しいではないか…
 
人間がやる不条理をラグビーやサッカーはしたたかに計算に入れている。サッカーの自責点も、ラグビーの楕円の球形も、予測不能の不条理を計算に入れてルール化されている。
 
だが、不条理性の中で、あこぎなことまでやって闘い、それが試合後も憎しみや恨みになるようなら、なぜ、ラグビーなどやっているのかわからなくなる。
 
それだけはやめとこうぜ。だって、オレたち人間じゃん。もっと不条理を克服していきたいじゃん…という思いがそこにあるからだ。

人は悲しい。そういう生きものだ。自分のことしか本来的には考えていないし、自分が、自分の考えがすべてだとしか、保守的で利己的な脳は考えないからだ。自分だけでいっぱいいっぱいでそれが当然とする。

だが、けりやけじめをつけることで、それを少しでも修正もできる生きものだ。それができなければ、人として生きていく意味がない。
 
スクリーンの画面のように、株価が好景気を演技し、客席には冷たい北風が吹いている。だれもいない客席で、けりとけじめのない選挙が始まり、客席には人がいない。客たちも自分のことでいっぱいいっぱい。

結構なことだ。滑稽なことだ。シャレじゃない。