秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

吉里吉里国とバランス

井上ひさしの「吉里吉里人」が出版されたのは1985年。社会が成熟期を迎え、バブル経済が始まった頃だ。

東北のある村がある日、日本国から独立する。

もう、都会に迎合し、都市へ人、物、資源を提供するのをやめる。人口わずか4200人の村、吉里吉里国は、あらゆる手段を使って日本政府と対峙する。その1日半の攻防を東北弁のやわらかさ、軽さ、おかしさを生かして、笑いとペーソス、ギャクにし、だが、辛辣に描いている。

作品の原型は、1964年東京オリンピック開催時にNHKのラジオドラマとして制作された。東京オリンピック愛国心一色の時代に、日本政治や日本国のあり方を根底から批判するラジオドラマは、集中砲火を浴び、担当のディレクターが更迭された、いわくつきの作品だった。

後に、日本SF大賞読売文学賞を受賞し、井上の高校の後輩、菅原文太が映画化を模索したが、実現できなかった。

1995年、沖縄で米兵による少女暴行事件が起き、米軍基地と日本政府への大規模な市民デモ、集会が起きた。その時期、再び、この本が沖縄県民に広く愛読された。本土に依存せず、吉里吉里国のように、独立を勝ち取りたい…。戦後沖縄が内在していた思いを代弁してくれていたのだ。

東日本大震災で東北は大きな打撃を受けた。とりわけ、原発事故被害を受けた福島は東北3県の中でも、これから50年以上続く、大きな課題を抱えている。

だが、そこになされているのは、現実的な課題には、手の届かない、机上の取り組みだ。そして、沖縄と同じように、自治体や被災者へ金を落とし、「最後は金目でしょ」という元大臣や横柄な元復興大臣のように、札束と力で地域を取り込もうとする。

しかも、沖縄と同じように、地域の有力者や地域の際立った情報ソースになりやすい団体や個人、組織を優遇することで地域全体の声が高まらないようにする。

もちろん、国政、行政レベルでも真摯であろうとする人々も、そうあらんとする取り組みもある。だが、現実の情報というのは、面を重視する国政、行政のレベルでは、収集さえ容易ではないのだ。そこに、個々の点が見失われる。

結果的に支援や助成、サポートはどこかに歪さを生み出す。そこを補完し、埋め合わせ、かつ、国政や行政に提言するのが民間の大きな役割だ。だが、民間までもが、国政や行政が見る面だけを重視していては、点はいつまでも見過ごされて、そして、切り捨てられていく。

憲法を始め、安全保障を足早に急ぎ、次の東京オリンピックをより華やかに演出する…だが、すでに、資材、人は、東京への寡占化に拍車がかかっている。

アメリカへ急激に傾斜し、アメリカの基準を世界基準とするそれは、多くの点をいずれ切り捨てていく選択になる。私はそう確信している。

バランスのない国は、日本という国の本来のあり方ではない。バランスの偏りが起きるとき、必ず、過ちを犯す国なのだ。