秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あるべき姿、あるべき形

あるべき姿、あるべき形、人々はそれを問い始めている。

今日、港区行政のある部署の方たちに、安保関連法案廃案声明についての説明と意見を伺いにいってきた。じつは、この2週間ほど、これに関する勉強会や対話の集いに参加し、異なる考えの人たちとも話し合い、廃案の考えを参加した人々と共有し、また、区議の方や区長さんにお伝えする活動をやっている。

立憲主義の基本にある国民主権日本国憲法にある平和主義と基本的人権の保障。アメリカの世界ではなく、すべての国がともにつくる世界。
そうしたことを語りながら、改めて感じている。

戦後70年。いまほど、人々があるべき姿、あるべき形を問うた時代はないのではないだろうかという思いだ。

これは安保関連法案だけがそうだというのではない。沖縄の基地問題、いまやその象徴となった辺野古移転問題。福島第一原発事故によって人々の関心となった原発再稼働の問題。これまで異常気象ですまされていたレベルと頻度を越える、火山噴火や豪雨…。

私は、人々の問いの発端は、直接的、間接的、漠としていても、その多くが東日本大震災にあったのではないかと考えている。そして、現実に、震災当時から、私の被災地にかかわる基本的な姿勢として、人や地域、生活者の本来あるべき姿、あるべき形を自らにも、多くの人々にも問うこととしていた。

政治に頼るのではなく、市民である自分たちが自分たちの手で地域をつくり、その力が政治を動かし、政治を決めていく。主役は私たち市民、国民であり、行政でもなければ、国政でもない。政治家でもない。政治家は代弁者でしかない。ただし、知性あるすぐれた代弁者でなくてはいけない。

「自分」に固執、我執した、自分のための地域、自分のための社会、自分のための国、自分のための世界から脱却しなければ、地域も社会も、国も世界も、すべて立ち行かない時代がもう目の前にある。

主役は自分、主役になれるのは、だれかではなく、「自分たち」が主役でなくてはいけないのだ。

「自分たち」の地域、「自分たち」の国、「自分たち」の世界はどうあるべきなのか。

それは次に「自分たち」を越えて、「互いの」に代わり、次の次には、地域や国を越えて、「みんなの」「あらゆる人々の」に育つ。最後には、「すべてのいのちにとって」になっていく。

武力ではなく、対話や交流、NGONPOの非暴力の活動がこれまでどれほどのいのちを救い、世界を変え、抑止となってきたか。リテラシーの低い人々がつくる脅威や仮想敵によってどれほどのいのちが失われてきたか。

失われたばかりでなく、抑止という名の武力が、世界のわずか数%の富裕層をつくり、いまもつくり続けているか。

自分のためを捨て、自分たちのためから脱却し、あらゆる人々とすべてのいのちにとって、あるべき姿、あるべき形を問えば、その答えはすぐに見えてくる。そのためのリテラシーを育てるのも、主役はだれかではなく、自分たち、生活者、市民なのだという自覚にかかっている。