秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

したり顔と謙虚

たとえば、介護の現場でも、子育て支援の現場でも、なにかのサポートに従事している人たちが見えている現実と国政、地域行政が見ている現実とは同一ではない。

同じものを見ているのだ。だが、その見ている角度が違う。深さが異なる。それが、国政や行政の手が届いていないという批判になったり、政治家や官僚はなにも見ていないという非難につながる。

現実から問題を掬い上げるのではなく、国政や行政の立場や考えを現実に当てはめようとするからこうした齟齬やかい離が生まれる。

だが、よくよく考えればおかしな話だ。

本来、国政や行政を支えているのは、国民や県民、市民、町民、村民が納める税金。消費税にせよ、住民税にせよ、所得税にせよ、相続税にせよ、遅延遅滞、未納となれば、やんややんやと取り立てに励む。高い利息もつく、訴訟にだってなる。

それでいながら、その税を納めている人々の生活の現実からではなく、政治家や官僚が考えるビジョンの押し付けで税は使われている。

この悪しき慣例や慣行は、かつて、国の教育水準が低く、一部の資産家の子弟や資金のある篤志家に支えられた優秀な人材しか高い教育を受けらなかった時代の名残がそうさせている。

つまり、国民、市民は教養がなく、もっといえば、地方には大所高所からの視点がなく、大衆は教育を受けていない。ほっとけば、自分たちの都合のいい権利主張が蔓延する。

だから、国の大事、地域の大事に当るのは、高等教育を受けたごくわずかな我々しかない。ゆえに、ビジョンも方法も私たちが考える。大衆は、それに従っていればいい。反論する輩は、中途半端に学問を受けたか、よからぬ輩に邪な知恵を吹き込まれているだけだ。

この考えが、国政にいる人間にも、そして政治家を選ぶ側にも、依然としてある。

いまでは、東大法学部卒の政治家は激減した。それに代わって、大して社会勉強もしていない、二世議員、三世議員という連中が政界の大半を占めるようになっている。

べつに本人だけの力で政治家になっているわけでもないのに、先代、先々代と同等の手腕や能力があると勘違いしている。

中には、もちろん、優秀な人もいるだろう。だが、無手勝流に、何の基盤もなく、政治の世界に登場するのは、至難なのだ。そして、ここにも政治家になるためには条件が必要という悪しき慣習によって、たいした学歴や教養がなくても、いっぱしの政治家だという輩が登場する。

結果、ますます、生活の現実からではなく、政治や国政、行政の眼からのご都合主義の押し付けが広がる。まして、まだ、先代、先々代にはあった、世論への気配り、配慮、遠慮というものが、どこかに謙虚さを生んだ。

ひとつには、社会に明確な対立軸があり、顕著に目に見えたからだ。

しかし、成熟社会というのは、明確な対立軸を限りなく不透明にする。そこかしこに、対立軸となるもの、議論し、検討し、取り組なければいけない課題があるとしても、それを遠いもの、いくつものオブラートに包んでしまう。

それが政治や国政、行政から謙虚さを奪う。選ぶ側からも対立軸を見失わせる。

それは政治への鈍感さ、あきらめ、面倒さ、自分さえ安泰ならば…という意識を増大させ、政治家には都合のいい国民意識が形成される。投票率の低下、野党のていたらくは、それを示している。

選挙制度の問題や対立軸となる受け皿のなさ…確かにある。だが、いろいろといっても、結局、今度は国民、市民の側が、さもしたり顔で、政治なんて当てにならないからさ、だれがやっても同じだろ…と国民、市民としての本来の役割と謙虚さを忘れている。

もうすぐ統一地方選挙、後半戦。あなたは、したり顔ですか、それとも謙虚ですか?