秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

命と向き合う教室

人が心にかかえている重荷。それを人は安易に言葉にもしなければ、態度に表したりはしない。

いい子であろうとしてきた人はなおのこと、そうだ。弱音や弱さを吐き出してしまうといこうことは、だれかに救いを求めることにつながる。たとえば、親であれ、年長者であれ、あるいは友人であれ、恋人であれ、歳下のだれかであれ。

救いを求めることがだれかの負担になり、自分のことで心を煩わせることは申し訳ない。そう考えるからだ。

あるいは、他の人にもそれぞれの事情や重荷があるのだから、自分がしっかりしなくては…自分がみんなを支えられるようでなくては…と考える場合もある。

また、そうした当てになる人だという周囲の期待に応えなくてはという思いやそう思われている自分を維持しようというプライドであるかもしれない。

昨日の夜10時から放送された、NHKスペシャル「命と向き合う教室~被災地の15歳1年の記録~」は、震災から子どもたちが抱える心の重荷、闇にしっかり光を当て、宮城県東松山市の中学校を丹念に1年取材したものだった。

震災直後から、被災の記憶をよみがえらせるような話題や指導は多くの教師、地域住民に抵抗があった。

日常の笑顔や元気を装い、装うことで少しずつでも、互いがふれることを避けている心の重荷や闇をやわらげよう…そう考えていたと思うし、いまもそれを続けている人たちは少なくないだろう。

「忘れて前へ進む」「過去を悔やむより、先を見て歩き出す」「失ったものは悲しいけれど、立ち止まっていてはだれも喜ばないし、幸せにはなれない」…。

それらの言葉やその背後にある意識は、人々を前へ進ませるためのものだ。だが、そこにはどこにも、つらさ、悲しさ、悔しさ、無念さを吐き出せる隙間がない。立ち止まって、自分の心と向かう暇(いとま)がない。

そして、それは、心に歪さをつくり、時間が経過するほどに回復できない、しこりや澱(おり)のようなものをつくっていく。

心のケアとかいった臨床心理士やカウンセラーの医療的、メンタル面でのサポートだけではなく、普段、日常的にふれあうだれかが、そのつながりの確かさで、この問題に切り込まなくてはいけないのだ。

いわき市立豊間小での水谷校長の取り組みに、私が強く共感し、取材を続けたのもそれがあったからだ。学校という場は、日常的にこれに切り込む機会と場が与えられている。しかも、大仰に心のケアという題目を設けなくても、いろいろな工夫でそれができる。

このNHKの番組でも、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉も、PTG(外傷後成長)という臨床心理用語は出てこない。

だが、保健体育の教師が進める、作文を書き、発表し、さらに、それを子どもたち自身が考え、作文し、さらに、それに影響を受け、自分の発露していなかった思いを人に伝える…という自分と向き合う授業には、それらがしっかり組み込まれていた。

私が福島を福島で終わらせないで、自分たちの地域の課題解決のヒントにしてほしいという願いのひとつに、これがある。

心に重荷やなにがしかの課題を抱えていない人は、この世にひとりとしていない。そこにふれることを避けた方がいいのでは…という配慮という名の人からの撤退は、どの地域にも、人と人が集合するどの場にもあることだ。

だが、そのままにして、日々の時間の慌ただしさに紛らせているだけでは、人の持つ力を引き出すことも、人と人がつながることで生まれる力もつくり出せはしないと思う。

社会から忘れられた人、見捨てられた人をつくらないためには、それを忘れないことだと私は思っている。あなたを忘れない、あなたの声が聴きたい…。そして、共に、傷ついた現実と向き合い、それを忘れるのではなく、受け止めて、前へ進んでいきたい…。

そうすれば、地域でなにを目指していかなくてはいけないのか、社会がなにを目指すべきかのか、そして、国のあり方はどうあるべきなのかが、おのずと見えてくる。

短編映画「みんな生きている」もそれを伝えようとしてる。「命と向き合う教室」とは、命と向き合う国であるということだ。