秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

母と子の会話

昨日、道路をふさぐ〇〇ウォークの中高年の民度の低さを書いた。今日は同じ道で、こんな母子の会話を聞いた。

青山霊園の片道歩道は、今日は、桜見物の人たちと、なにか都合があったのだろう…お彼岸に来られなかった人たちの墓参りでにぎわっていた。

道は行き交う人たちであふれている。そこに、ママチャリに乗ったお母さんと子ども用の自転車に乗った息子らしい男の子がきた。

歩道がいっぱいだから、狭いが車道を走るしかないだろう…。母親はそう息子にいうだろう…そう思っていると、だが、お母さんは、「ほら、車道を走りなさい」とはいわなかった。

こう息子に問いかけたのだ。

「〇〇ちゃん。どうしよう。歩道は、桜見物の人とお墓参りの人でいっぱいね。このままつっこんでいく?」

母の問いに、男の子は「ううん」と答えた。すると、お母さんは、「そうよね。危ないものね。どうしよう?」とまた問いかける。

男の子は、「車道を走るよ」と答え、お母さんは、「そうね。でも、車が走っているよ?」とまた、問いかけた。

私は、そこまで耳にして、もう、このお母さんがすばらしい親であり、教育者だと直感した。

その証拠に、母親の問いに、促されるように、男の子はいったのだ。「車に気を付けて、一列でいこうよ」。その息子の言葉に、お母さんは、嬉しそうに、「そうね。それが一番いいね。気を付けていこうね」と答え、二人は、一列になり、車道の左側をゆっくり走っていった…

もうおわかりだろう。

このお母さんは、子どもに、自ら考えるようにさせている。言い換えれば、子どもがいろいろな状況で、他人に対しても、また、自分たちの安全の上でも、もっともいい判断は何のか考えるように、そっと背中を押している。

決して、こうしろ、ああしろ、これが正しいと指示も、命令もしていない。していないから、子どもには、ここで自分はどういうふるまいをやるべきなのかが身に付いていく。

指示や命令は、結局、人を育てない。それが自分で考えた行動ではないからだ。道徳も倫理も、その延長にある社会規範や社会的常識というものも、さらには、それらを拠り所とした法も、観察し、思考し、行動して初めて身に付く。

そこで、不整合や不都合、不備があれば、それを考えることができる。自分の間違いもだが、そもそもの常識といわれているものの整合性や妥当性を検討する力が生まれる。

指示や命令は、いいも悪いもない。ただ、いうことを聞いていればいいという人間しかつくれない。疑いを持つこと、それゆえに、それを変える道を探すこと。その力が自分にとっても、他人にとっても、よりよい社会の基準をつくりあげていくのだ。

私たちは、すでにある規範や法の上にあることだけで、すべては正しいのだと思い込む。だが、現実は決してそうではない。規範や法が現実にならない。だから、争議もあれば、対立も、裁判闘争もあるのだ。

そうではないことを体験したり、実感した人々の疑問や不安、それの積み重ねが、いまをつくってきたのだ。

つまり、そのときどきにある、「いま」の基準や規範を様々に思考し、意見を持つ人々によって、いまがあるだけのことなのだ。いまあるそれらは決して絶対的なものではない。

常に、普遍的な価値や基準を求めて、追及されてなくてはならないものであり、すでにある基準や規範、法が、理想的なものであったとしたら、それを現実にすることのための疑問と検証と行動がなくてはいけないということだ。

いま政治が道徳教育や教育そのものに深く関与し、指示や命令に従うだけの人を量産することばかりに腐心している。

そんなことをしたところで、よりよい基準や規範を見つけ出す人間は育たない。現実には、規範や常識が揺らいでいるのに、お仕着せで、ただ画一的に、自分たち大人社会や政治に都合のいい、指示、命令受け入れ型の創造力のない人間をつくるだけだ。

改革や変革を怖れ、いまある普遍的でも、十全でもない基準だけに縛る世界に、今日のお母さんのような子育ては生まれない。