秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人としての自由

テレビや新聞の報道を見て、ああでもない、こうでもないと政治や経済、あるいは文化、事件について、私たちは意見をいうことができる。

場合によって、報道そのもののあり方や政治、経済、事件そのもののあり方に批判や批評をすることもできる。

それができているのは、私たちではなく、私たちの前を歩いた人々が、自由に意見を述べ、闘わせ、場合によって、社会的な弾圧や抑圧、あるいは差別や排除といった苛酷な体験を乗り越えて、拓いた道だ。

私たちだけで拓けた道ではなく、その営々とした積み重ねが結実した結果なのだ。

以前、高校の同級生仲間と福岡で飲んだときのことだ。いつも時間があって声をかけると集まってくれる5人ほどの悪友たちがいる。

その席で、高校時代の学内での政治的な活動の話になった。悪友たちでそれに積極的にかかわっていた人間は二人ほどで、他はそうではない。そのかかわっていなかった友人のひとりがこうした話になるといつもいうようにいった。

「おまえたちがいろいろやっとったのは、知っとうけどさ。関心のなかった奴の方が多かったちゃないや? かかわらんでも、オレは高校時代、ものすごく楽しかったけん」

奴らしい言い方だ。奴の性格のよさ、人のよさを差し引けば、あえていうこともでないとは思った。が…

「おまえさ。いま、高校時代、ものすごく楽しかったっていったろ? それを楽しくしたのは、おまえが関心がない、かかわらんでもいい。そう思っていることに、かかわって、いい高校生活を送りたいと闘っていた奴がいたから、できたことなんだぞ」

「そうかいな…」

「そうさ。あれだけ自由な学校がどこにあった? そうするための努力があって、あの高校時代はつくられてるんだよ。おまえはなにもやってないかもしれないが、おまえの関心のないところで、闘った奴がいたから、いま、おまえはそういえるのさ」

私の言葉に窮した友人は、議論は得意ではない。だが、友人だからこそ、いっておくべきことだと思い、私は、そういった。

好きなことができ、好きなことがいえて、難しい政治や決まりのことにイチャモンつけなくても、オレの生活はしあわせだし、そんなことにはかかわらなくてもいい…

多くの人がそう思う。あるいは、いろいろ思うところがあっても、あえて言葉にしない。自分の権利や主張が抑圧されたり、弾圧されて、他人事ではなくなる。

だが、それは怠慢でしかない。自由であるために、闘っただれかたちのおかげで、私たちは、自ら何かを犠牲にしないで、しあわせでいられるのだ。それをはき違えてはいけない。

そして、もし仮に、自分が自由でしあわせであったとしたら、そうではないだれかの自由のために、なにができるかを考え、行動するのが、いただいた自由への恩返しなのではないかと私は思う。

今日、渋谷区で同性パートナー条例が賛成多数で可決された。法的拘束力はない条例だが、画期的なことだ。欧米ではまだ偏見はあるが、法制化されている州は少なくない。

今夜のNHK NEXTではパキスタンでの女性への差別弾圧に立ち向かう少女、女性たちの取り組みをとりあげていた。戦前の日本でも当り前にあった児童婚や女性蔑視の因習的制度とそれがつくる人権無視の男性社会の意識だ。

これらもまだ闘いの最中にあり、闘いがある限り、少しずつでも自由への獲得要求が地域、社会、世界に広がる。そこには、自分の救われた自由でいいのではなく、救われてない不自由へ関心を抱き、行動する人々がいるからだ。

いま沖縄が、国から不当ともいえる差別と弾圧を受けている。民主国家とはともて思えない、議論もない中で、沖縄だけに犠牲と不自由を強いる。それに対して国民的な運動が広がらない。

沖縄ひとつみても、この国の多くの人たちが、いまある自由は何の犠牲もなく、手に入ったものだと思っているのかもしれない。戦後70年、基地を沖縄に押し付けることでえてきた、本土の自由。それは、真に、人としての自由といえるのだろうか。

福島も他人事の不自由にしてはならない。