秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

目には目を

自らの心の傷と痛みを止める、あるいは和らぐために人がとる行動はいくつかある。

だが、その中でも、他者を巻き込み、他者を犠牲にするという行為で、自らの心の傷をさらし、痛みを世間の人々に伝えるという情動がある。

その根源にあるのは、傷を与えた他者への憎悪だ。だが、それは、直線的に、自分に傷を与えたその当時者への憎悪で終わらない。

人は憎悪を爆発させる前に、様々な心理的葛藤とぶつかる。こうなったのは自分がいけないからだ…に始まり、やがて、自分を責めることで心の行き場を失うと、それに耐えられない者は自死を選択する場合もある。

自らがそれを行なわない場合でも、すべての社会関係から孤立、セルフネグレクトし、病気や飢えに襲われながら、救いの声をあげないという孤立死を選択する場合もある。

自分を責めることで行き場を失い、自死セルフネグレクトを最終的に選択しない場合、耐性の持つ限り、ギリギリまで、それに耐え続ける。

そして、いつか、自分の心の傷がどこからもたらされているものなのか、だれによってもたらされたものか、そのときの原風景すら、記憶の奥、リビドーの心の闇へ格納し、自覚できなくなる。

だが、憎悪の感情だけが、ポツリと心のひだに残されるのだ。だから、普段は、大人しく、そうした傷とは無縁のような装いをみせる。演技ではない。本人にすら、自覚されていない。

しかし、直接的に心の闇にふれなくても、本人の耐えられないなにかを格納するまでに至る心の導線のどこか、ポツリと残された憎悪の蚕にふれるだけで、それが起爆装置のように、闇のスイッチを押す。最初は、突然、なにかにキレるという形で終わり、闇が暴発することはない。

だが、幾度もその回線にまつわる言葉、他者のふるまい、周囲の視線を感じ始めると、ある瞬間、闇の起爆装置の作動がする。

もちろん。こうしたケースに至らず、周囲のサポートや自らの回復力でこれを乗り越えていく人もいる。

周囲の温かな言葉や態度。忍耐強く、本人が自らの心の傷と向かい合うまで支え、それによって、癒しをえることがある。(PTG)

場合によって、信仰の力をえて、そうなる人もいるだろう。つまり、歪である心の闇を持った自分を否定ではなく、無条件で受け入れてくる「愛」に出会えるかどうかに、それはかかっている。

社会の表面に出現した悪だけを見て、ただ、それを非難し、処罰し、排除する。それに馴染んだ社会というのものの、危うさはそこにある。処罰される側にある闇を知ろうとしない。

結果、それは、悪を増大させ、さらなる悪を生み出し、新たな憎悪を育てるからだ。そして、起爆した憎悪によって、無作為に傷つけられた人は、そこまでの斟酌をする余裕もないがゆえに、憎悪の闇へと吸い込まれていく。それ自体、だれかにとっては悪であることも知らず、正義の名において…。これが憎悪の連鎖の基本構造だ。

世界で、とはいっても、テロ対象国家群となっている有志連合の国々とそれに追従している日本だが、「目には目を、歯には歯を」の憎悪の連鎖が拡大している。当然、そこには、だったら、オレたちもそれ以上に「目に目を、歯には歯を」を増大させる。

だが、この「目には目を、歯には歯を」の本来の意味と由来は、決して、浅薄に、受けた被害には、倍返し!といった報復をたたえたものではない。ハブラビ法典にあるこの文言、これは旧約、新約聖書にも登場する。

過剰な処罰を禁じ、対等の立場において、その罪を償い合うということだ。この世に完全な正義も、絶対の正義もない。等価の中で、どう罪を裁くべきか。そこに公平性が必要なことをいっている。

しかし、いまこの国でも、世界でも、ただ暴力によって、あるいは暴力の報復によって、さらには、その暴力を結果的に支援することによって、公平性に見向きもしない。罪は罪。処罰がいる。だが、自らが起こしている憎悪への責任の自覚がなければ、ただ心を病んだものの報復でしかない。