秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

御嶽山とカッティングオペレーション

御嶽山の突然の噴火で、31名の登山客がなくなり、37名が重軽傷を負った。幸いにして、九死に一生をえた登山者は30名以上。その被害は100名以上に及ぶ。
 
知り合いや友人、親しい人がこの週末、山間部に行っていた人は、別に御嶽山でなかったとしても、どこか、不安になったのではないだろうか。私もそのひとりだ。
 
木曽の御嶽山は、民謡にも歌われ、地域の人ばかりでなく、長野県、岐阜県山梨県のほか、トレッキングやワンダーフォーゲルなど、関東甲信越・近畿の山好きの人たちに親しまれている。
 
35年前に死火山と思われていたものが突然噴火したが、今回のような大規模な噴火を起こすとは予想されていなかった。

いまは、天変地異、災害の予測がこれまでの予測の想定や基準を越えている。それは、もはや専門家だけではなく、多くの人々がどこかで気付いている。
 
いうまでもなく、始まりは東日本大震災だ。
 
だが、人というのは、規則の形骸化、基準の陳腐さといったものに向き合わない性質がある。
 
これまでのそれらが保障する安全や安心が喪失していても、それに目をそむけ、あるいは、目をつぶり、ときには、なかったことにしてまで、いままでと同じ時間を生きようとする。
 
ひとつには、これまでの基準やルールの変更には、多くのコストと手間暇がかかることがある。
 
さらには、新しい基準やルールの確立に合意を得る煩雑さがある。そして、最大の難関は、その新しい基準やルールに問題が生じたとき、だれが責任をとるのか…という責任問題が浮上することがある。
 
であれば、とりあえず、問題を先送りして、結論をつけたり、変更を議論するのは後回しにし、手当、繕いでいまを切り抜けようとするのだ。
 
福島の抱える課題は、決して、福島だけのことではなく、この国が今後、どのような地域づくり、国づくりを進めていくかの根幹にかかわっていると私は思っている。
 
だが、福島県人の中においてさえ、震災前と同じ生活、あるいはそれに類似する生活が回復できれば、それでいいという思いが支配している。

当然、日本国民の中に、福島のことは、福島のこととして、自分たちの問題にひきつけて考えることを遠ざける力が働いている。
 
これを社会学で、カッティングオペレーション、隔離作用という。問題に向き合おうとしないというのは、個人の課題ではなく、社会全体の課題として存在する。

隔離してしまえば、検証作業も、自分たちの社会や制度の危うさも、あるいは、自分たち自身の自己否定や批評をすることも必要ない。
 
簡単にいえば、「私は悪くない」「私のせいじゃない」として、自ら火の粉をかぶらなくてよくなる。自らの逃避を、対象となるものを無化させることによって成立させ、自らは逃避していないように装うことができるのだ。

私たちの国、社会は、長くこれを常套手段とし、制度の変更や基準の転換を遠ざけ、いまも回避続けている。

なんでもかんでも、あからさまにし、あえて窮屈で、息の詰まるような議論をしろといっているのではない。

もっと互いが、地域同士が、社会が、国同士がよりよくある制度やシステムを共に探し出す旅に出てもいいのではないかといっているのだ。
 
ゆるやかだが、心地よい、つながりや制度、基準はある。それに踏み出す、少しの勇気が人々に生まれれば、それは決して難しいことではない。