秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

美しい顔をした悪意

美しくない芝居は芝居とはいえない。美しくない映画は映画とはいえない。私は、15歳のとき、演劇の世界に足を踏み入れたときからそう思っている。

それは私が、15歳当時、新劇の最高峰といわれた舞台のほとんどを幸せなことに、地方にいながら見られたことと無縁ではない。
 
小劇場時代から、照明や衣裳、小道具にこだわり、その世界では一流といわれるスタッフと仕事をしてきたこととも無縁ではない。帝劇に象徴される大劇場システムの東宝で修行したこととも無縁ではない。
 
が、しかし。照明や音響や衣裳や小道具は重要だが、芝居そのもの、映画そのものに美しさがなければ、どのように一流のスタッフを使っても、舞台も映画も美しくはつくれない。
 
では、美しいとは何なのか。
 
美しい女優がいればそうなのか。美しい男優がいればそうなのか。有名俳優がいればそうなのか。そうではない。
 
有名であろうが、無名であろうが、描かれる世界や人間模様はどろどろしていようが、そこに描かれる世界が人間の真実に近づこうとしているか、いないのかが問題なのだ。

 
ある人間の真実を追い求めて、その一点に集中し、かつ、それを俳優という身体や舞台というキャンパスや映像という写真に切り取り、絵画として、造形として、照射できているかどうかが問題なのだ。

なぜ、人々はシェークスピアにいまでも感動できるのか。なぜ、人々はいまでも近松の芝居に涙できるのか。なぜ、人々は能楽にはかなさを感じることができるのか。

もっといえば、自国の言葉で書かれはいない、オペラやミュージカルに私たち極東の小さな島国の人間でも感動できるのか。自国の舞踏ではない、バレエに魅了されるのか。

あるいは、伝統文化としては、本来、音感の違う多様な音楽に、人々は国境を越えて、民族を越えて、共感できるのか。

すべて、ある人間の真実を切り取り、描こうとし、そこに普遍性という美があるからだ。

古典であろうが、中世、近代であろうが、現代であろうが、その扱う時代性を越えて、人々が共感し、共鳴できるのは、そこに変わらない美=普遍性への追及があるかだ。

だが、それは決してお行儀のいい美でも、社会規範に準じた美でもない。古今東西、名作の多くは犯罪者や社会規範からの逸脱者であり、プロテスタントだ。

いまある社会規範や常識、法や道徳、倫理とあがらい、そのために孤独であり、孤立し、我欲や羨望、妬み、不安、恐怖、高慢、傲慢、失意…といった、だれにもある、人間の弱さを持ち、それでも何事かをまっとうしようとする人間の姿に、人々は人の真実を見る。

敗者であるか、勝者であるか、弱者であるか、強者であるか…といった単純なものではなく、敗者の中に勝者があり、勝者の中に敗者があり、弱者に強者が潜み、強者に弱者が潜む。
聖なるものに通俗があり、通俗なるものに神聖が存在する。
 
人の真実とは不条理性に満ち、美は人の醜悪の中にも存在する。
 
だが、いまの世の中、正義ばかりをとなえる美と社会規範や常識、法や道徳、倫理の枠組みの中で、なぞるような美ばかりを追っている。

そんな世の中というのは、すこぶる気持ちが悪い、居心地が悪い。気味が悪い。
美しさとは何なのか。改めて、問うことを忘れた国、世界は、美しい顔をした悪意を育て、野放しにしている。