秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

お前もお前だ

社会問題や政治経済の問題、あるいは紛争や戦争、犯罪や事件…。それをどう見るか、どう読み解くか。解けないまでも、そこから未来の教訓やヒントをどう掬いとるか。

重要なのは、そこだ。

だが、現実には、じつにバイアスのかかった視点や視座、あるいは、これまでの経験則や既成の枠組みでしか、それらを見ない、見られない、見ようとしない人たちが多い。

そのため、犯人やスケープゴート探し、力でねじ伏せるようなつぶし合い、争点のごまかし、足の引っ張り合い…といった、傷ついた子どものような心情のぶつかり合いが起きる。

もちろん。時として、議論や討論が白熱し、感情的になることはあるし、あっていい。そもそも、議論というのは熱を帯びれば、そうした側面を持つ。

白々しい虚言や正当な討議を回避する官僚言葉で議論ともいえない、すり抜けを狐や狸の化かし合いのようにやるより、その方が余ほどましだ。歯の浮いた常套句や包帯を巻いたようなウソは、所詮、「美しい顔をした悪意」でしかない。

重要なのは、だれのために、何のために、世の中や社会や世界に出現する様々な課題や問題を語り合おうとしているのか。

その主人公を忘れてはまったく意味も価値もなくなる。議論の先になにかを創造することも、生み出すこともない。

沖縄にせよ、福島にせよ、集団的自衛権にせよ、憲法改正にせよ、イスラム国ISにせよ、海外援助のあり方にせよ、福祉にせよ、地域再生にせよだ。

議論するための主人公はすべて国民だ。市民だ。生活者だ。国民のためにどうあるべきか、生活者、市民のためにどうすべきかだ。もっといえば、地球市民全体の未来のために、どうあるべきか、何をなすべきかだ。

どうも、昨今、ここかしこで、自分のため、自分たちのための議論、議論ともいえない情感のぶつけ合いがこの国で日常化している。

福島第一原発の汚染水対策のミスを隠ぺいしている東電。それでも国会答弁でいまだ、コントロールされているといい続ける政権。これも子ども地味たごまかしでしかない。被害を受けている人々が口角泡を飛ばすのは当然だ。

だが、被害者であることを強調するあまり、自ら福島を貶めるような抗議をする人たちも少なくない。これも、自分のこと、自分たちのことばかりだ。なぜなら、その苦難の中で、必死で、再生の芽、道を育て、拓こうと日々苦闘している人たちもいるからだ。

確かに。イギリスの皇太子が来て、ここぞとばかり、人気取りのパーフォーマンスに励む国の首相の姿は恥ずかしい。心のケアが重要ならば、復興予算の使途の見直しやいまだ12万人の避難生活者のための対策、震災遺児・孤児や親族里親への支援、放射能汚染廃土処理の問題、東電への監督管理責任を果たせと怒鳴りたくなる。

だが、そんなことばかりに終始していて、福島の未来は拓けない。その怒鳴り声のどこかには、これまでのように国政や行政だけに依存する、原発受け入れ地域の国政頼り、行政頼り、大企業頼りの姿とどこが違うのか。

私が腹立たしいのは、パフォーマンスに走り、現実を直視せず、いかにも見捨ててはいないと現実の言動と相反しながら、それにまったく反省のないこともだが、同時に、依存性をあらわにした背反する言動だ。

それが必死に耐え、忍び、かつその中で、道を探し、行動する人々の取り組みをも否定し、足を引っ張っていることに気づきがないことだ。

いずれも、自らの現実をどう変えていくかの次がない。そのために、見えなくなっている現実が増大し、それによって、人々から無関心を引き出し、共感と協働の意欲の障害になっていることがわかっていない。

喧嘩の正しい仲裁。お前もお前だ。あんたもあんただ。オレはオレだ。

議論もいる。感情にまかせて白熱することも時には許そう。だが、傷ついた子どものように甘えた議論はもういい。それぞれが、それぞれの不覚と愚かさを知って、次のために、語り合おう。力に頼らず、市民を犠牲にせず、どうしたら、自立した個として連帯できるかを。過ちを繰り返さない知恵を絞ろう。

それこそが必ず地域を、社会を、国を、世界を変える共感の輪をつくる。