秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ほぐす

大人は、自分が子どもだった頃の振り返りたくない記憶、自分が思春期に受けた傷の体験…。それらをいつか忘れている。

いや。正確には忘れるために、心の闇や格納箱の奥深くにしまいこんでいる。そして、やがて、それらは、なかったものにしていく。

あるいは、過去のそれらから逃れるために、心の弱さや甘えを否定する。否定できる生きる価値観を持とうとする。

それはいわば、振り返りたくない記憶をつくった者、傷を与えた者の側に自分の生き方の価値観を合わせようとする行為だ。

それが、大人から子どもを理解ための心を奪う。眼を曇らせる。

やっかいな子どもの問題から、いろいろな理由や理屈をつけて、大人が遠ざかるのは、それがある。また、一方的に世間体、社会性にこだわった物のいい方、触れ合い方しかできないのも、それが要因のひとつだ。

仮に、それをしないでいられたとしても、大人自身にゆとりがなくなると、これが噴出する。仮に、まったくそうした記憶や体験がなかっとして、同じことが起きる。

そして、決まって、大人は、世間体や社会性にこだわったことしか言えなくなる。それもなくなると、無視さえする。あるいは、暴力にさえなる。

大切に育てられた人。それは決して経済的な意味だけではなく、甘えさせるということでもなく、親から確かで、深く、正しい愛され方をして育った人は、自分自身の心の動揺や執着をあっても、表に出さないでコントロールができる人が多い。

しかし、それも逆に子どもの問題をひとりで抱え込んでしまう危うさと紙一重だ。

ここまで読み進めて、理解力のある人はわかるだろう。そう。子どもの問題は、大人自身の問題なのだ。

そして、大人自身の問題であるということは、社会のあり方の問題であり、大人自身を育てた、その大人たちの問題でもあるということだ。

一昨日、江古田映画祭の上映会あとのトークショーでも話したことだが、被災地に限らずだが、子どもを見ること、知ることだ。子どもを見るということは、その親を見るということにつながる。そして、親を見るということは、その親、高齢者を見ることになる。それは、結果的に地域を見ることになり、引いては社会を見ることになる。

何か問題があるからといって、犯人捜しをしろといっているのではない。また、問題がないから、見る必要がないといっているのでもない。

子どもの姿を生んでいる親にも、苦しみや葛藤があり、その親を育てた高齢者にも苦しみや葛藤がある。そして、それをほぐせない地域にも苦しみがあり、葛藤がある。さらには、地域を包む社会にもだ。

そこに気づけば、子どもにかかわることが、子どもをみまもることが、結果的には地域、社会をみまもることになる。そこにほぐせない現実があると気づけば、子どもを通して、家庭を通して、その現実を変える知恵が生まれる。

大事なのは、わかりやすくだれかを犯人に特定し、そのだれかをパッシングすれば済むことではないということだ。ほぐすために、私が、大人たちが、地域が、社会が何に目覚め、どう考え、そして行動し、滞りや凝りのない、血流のよい生活環境、地域環境、社会環境をつくるかなのだ。

震災から4年。昨日のNHKでもやっていたが、いろいろな変化が子どもたちに現れている。だが、それは決して、子どもだけの問題ではない。そこに目を向けない限り、復興の次、この国の次が決して、血流のいいものにはないっていかない。