秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

社会の公共性

社会の公共性をどう確保するのか。それが、近代以後、そして、自由主義経済が破たんしたいま、世界的課題である…ということの気づきのない人々がいる。
 
自由競争を善とする経済思想が地球の温暖化を呼び、南北問題や世界的に広がる格差の元凶であり、若年世代の雇用不安や生活不安を呼んでいる…ということの認識はできたとしても、それを改めなければ、これからの時代の社会の公共性を担保できない…ということが理解できない。
 
マイケル・サンデルが提唱する以前から、それは自明のことだった。
 
しかし、それでも気づきが持てない大きな要因は、資本主義における経済成長期と成熟期が生んだ負の遺産。公害や環境破壊、実態のないマネーゲームによる生産製造の空洞化など、社会的、世界的課題についての歴史的学習と知識が乏しい、または、学習の浅薄さゆえに、それ以後の社会が目指すべき公共性に立脚した国家観や世界観ができていないということがある。
 
電力料金の統括原価方式というのがいま問題になっている。経済成長を支え、安定的な生産活動、生活基盤を最低限保障する上では必要だった。また、それがあることで、24時間現場を支える人々の社会的使命と責任感を醸成することにもなった。
 
だが、それは、あくまで、ゼロペースから経済をどう立て直すかという時代、いくつかの集約型で補償された企業をつくり、育てなければできかったというだけのことだ。
 
世界で起きたいくつかの大規模原発事故、また、今回の福島第一原発における事故によって、これまで人々が一つのシステム、一つの大規模企業に電力を依存してきたことが危険性の実感に変わった。原発依存や大手電力会社に依存するエネルギー政策やシステムでは立ちいかないという現実を前に、新しい社会の公共性が必要になっているのだ。
 
新しい公共性をどうつくるか。その議論がないところで、原発の再稼働が政治の駆け引きや財界の圧力で決まる。、また、新しい公共性をつくるための、40年後の未来への政策提言、市民提言のないまま、反原発運動だけが盛り上がっている。問題はそこにこそある。

本来、公共性の確保のためには、市民同士が議論し、市民、国民の声がそこに反映されなくてはいけない。しかし、この国の選挙制度で選ばれた国会議員や政治家たちは、かつて一度も万遍なく、市民、国民の声を聞き取り、同じ市民の立場で議論し合う場をつくってきていない。
 
やったとしても、地域の限られた識者や賛同者を集めたものか、ただ激しく感情論をぶつけるような集会にあえて、身を置き、アリバイを工作することしかしていない。
 
市民と共に、ひとつの公共性のあり方について、徹底的に議論し、方向性を定めるということをしていないのだ。もちろん、そこには、それができない政治家を選択してきた選挙民である国民の責任、そもそもそれがでいない感情論だけに走る、国民の無知にも問題がある。
 
無責任な国民が選んだ政治家は、支持者の集まりだけに顔をだし、普段接することのない人々の声を聴こうとしない。あるいは、接する場や機会のない人々のところへ自ら身を置くということをしない。どれだけ数、支持者と握手するかが大事で、ひとり一人が抱えている生活課題に耳を傾けようとはしない。
 
ただでさえ、人々の求める公共性が多様となり、立場や経験、それぞれの生活のあり方、位置によって、一応でない欲求の中で、そんなことで、社会の公共性が何なのかを理解するとも、実感することもできはしない。また、市民が自ら、冷静で緻密にそれを広く市民同士で議論し合う場をつくっていかなくては勝利はない。
 
かつて公害闘争で勝利できたのは、感情論を前提としながらも、冷静で緻密な実証をいくつも挙げ、それをこれまで公害の知識の片りんもなかった人々が議論し、共有し、息ながく、たゆまず闘い続けていったからだ。それが成長のためには何をやっていもいい…という企業の非公共性を糾弾し、公害を克服する社会をつくりあげた。
 
公共性とは何かは、歴史の中にいくらでも学ぶ場がある。