秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

他者にゆだねるか、自らの自由とするか

政治家の意識と市民意識の差。もっといえば、政治家の生活感覚や常識と市民のそれとのかい離は、この10年で加速度的に広がっている。

しかし、一方で、市民の政治意識やそれへの参加は過去に比べて、明らかに保守反動化し、現状容認傾向が強くなり、政治そのものへの関心や参加も加速度的に減少している。大きな要因は期待した民主党への失望と民主党の弱体化だ。
 
健全な野党というものが、いまの政治から姿を消している。
 
それを政治の腐敗や政治家の軟弱さとスケープゴートするのは、実に簡単だ。
 
だが、現実には、その政治や政治家を選択しているのは、私たち市民なのだ。いかに自分はそれに組みせず、別の政治を求めて他の候補に一票を投じようが、あえて棄権しようが、政治をとめられない、変えられていないという事実に変わりはない。

そもそも、政治の利権に群がる構造と癒着とは、じつは、過去と現在と実質的にはそう変わっていない。

時の政権、つまり権力に結びつくことで、黒を白にもかえれば、左に置くのが世間の道理のものをあえて、右に置いて、それを強引に道理にしてしまう政治の手法は、いまと昔と大して変わりはない。

政治に不満や不平をいいながら、政治家の権力に頼り、動かない行政に圧力をかけるというのも、古い政治構造や腐敗を当然とする政治の仕組みにのかっている。
 
逆をいえば、それほどに、政権というものには力があり、かつ、政治家の圧力や意向に行政も官僚も一喜一憂されせられる現実は変わっていないということだ。
人々はあれこれ理屈を言うことが好きになり、まことしやかにこの国の未来、政治経済を語る。しかし、その多くが他者批判の域を出ない。まともな議論でもなければ、何かを生み出す議論でもない。
 
また、いまの自分の暮らしを守りたいという人が圧倒的に増えた。一方で、若年層の就職難や賃金格差、税負担の不公平性、社会福祉の歪さといった生活に直結する問題があっても、安定的で、経済成長を前提とした未来しか描かない人々が増えている。自分にふりかっている理不尽さの要因を、自らの要因を含め、突きとめようとはしない。
 
私は民主党政権時代が来る前から知り合いの識者たちとの話の中でいってた。

民主党が政権をとることが重要なのではない。それが崩れたとき、いままで封印されていた、強圧的な政治手法や改革の美名をかぶった国粋的保守反動の時代が到来する。
 
問題なのは、民主党が政権をとることではなく、そのあとで、そうならないために、政界の再編と新しい市民政党が生まれることなのだ…私は当時民主党を支持したが、民主党そのものには期待していなかった。民主党はきっかけに過ぎなかった。それは民主党の国会議員の幾人かにはっきりいってきた。
 
もし、それが逆のベクトルに動けば、本来、生活権や基本的人権の主張をすべき大衆、国民が雪崩を打って、その流れに乗ってしまう。そういう時代がきっとくる。
 
だからこそ、できるだけ早く、自民、民主のそれぞれの分裂による新しい二大政党が生まれ、それを基本としながら、自民、民主の古い政治体質とは別の第三党、第三の道が幕をあけなくてはいけない。次にくるだろう危機回避の道はそこにしかない。

だが、この国は、そのチャンスを逃した。
 
しかしだ。不幸な出来事ではあったが、東日本大震災がきた。それは、雪崩をうって右傾化する道に、いま一定のブレーキとなっている。

なぜなら、そこにこそ、生活権と基本的人権の主張があるからだ。平穏無事でもなければ、確かな未来も約束されていない。その非日常を生きる場所だからこそ、切実に、その大切さと重要さがわかる。

だが、現政権において、福島の声は無視されている。特定秘密保護法案の福島公聴会は何ひとつして反映されていない。原発事故の復旧においても、その他の原発事故関連の対策においても、まったく現地のニーズとミスマッチを繰りかえしている。
 
これに限ったことではない。少子化対策にせよ、アベノミックスにせよ、消費税にせよ、尖閣にせよ、原発事故対策にせよ、脱原発議論にせよ、TPPにせよ、なにひとつ、国民的議論と合意形成の中ではされていない。
 
恣意的に選ばれた、自公支持者やシンパの温ま湯の中ですべての意思決定がされ、国民の声や大衆の姿にふれる場から遠ざかる。

だが、そうした現実があっても、街には、その歴史も知らずに、ハロウィンで着飾った若者があふれ、まるで、震災も原発事故も、こうした危い法律が成立している現実からも撤退している。
 
結局は、すべての責任は私たち、国民にあるのだ。リーダーやパイオニアを探し求めるのではない。一時の楽しさに自己を埋没させるのではない。自らが自らの手で歩み出さなければ、政治も社会も、地域も、家庭も変わらない。
 
生活権と基本的人権。人類がいのちをも犠牲にして、営々と闘い勝ち取ってきた権利はそれだ。それを他者にゆだねるか、自らの自由としていくか。それは、自分にできる行動でしか守れない。