秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

目覚めなさい

つながりを持てない人、つながりをつくれない人、つながりそのものから撤退する人…

ネットワーク社会といわれながら、現実には、つながりとは遠く、安心していられる自分の居場所、居所といったものを持たない人は増えている。

ひとつには、裾野が広がっている貧困がある。ひとつには、生活の孤衆化がある。それに加えて、被災や事故による生活基盤の転換、崩壊がある。

経済的基盤が安定していれば、同じ基盤を持つ者同士のつながりの中で、つながりそのものを喪失することはほとんどない。経済的基盤は社会とのつながりの維持、保全の基本にあるからだ。

ほとんどないといったのは、その基盤が失われないでいられるうちは…という条件付だからだ。経済基盤の喪失は、いうまでもがな、社会だけでなく、家族のつながりも分断する。子どもの受ける教育の質と内容も低下する。

そうしたとき、次にあるのが、社会福祉や近隣のつながりだ。経済的基盤がぜい弱である人を地域や社会とのつながりにとどまらせるための役割を持っていた。

だが、地域共同体が少子高齢化でほころび、維持できない。それに伴い、地域の教育力も喪失する。そこに、福祉や地域教育への予算が大幅に減額されている。

また、一度、経済基盤を失い、それを前提としたつながりの枠組みからはじかれると、救済のつながりに手を伸ばせない、そことのつながり、情報がえらえないということが起きる。

他者への無関心を自明とする過剰流動性が広がることで、この地域、社会とのつながりに人を留まらせる力が失われた。そこに弧衆が増大する。

弧衆というのは、6年前に私が使い出した造語だ。衆といっても、共同体のような集合ではない。弧として浮遊する人々であり、弧としてしか他とつながれない人たちのことだ。

この弧衆化には、ひとつの特徴がある。排他性だ。

高齢者や貧しい女性、中年の孤独死で、地域を非難する人がいるが、じつは、自ら地域とのつながりを拒否している人は少なくない。いわゆる、セルフネグレクト孤独死は多い。いろいろな事情や世間体などから、救済に手を伸ばさない。伸ばせない。

もうひとつは、弧衆は、自分たちのある興味、嗜好に強くこだわる。社会的なつながりではなく、なにかのアイテムだけで弧の集合化が深まる。

地域的なつながり、社会的なつながりからはじかれる、あるいは遠ざかった人たちが、その失った居場所の代替えとして、カスタマイズされた集合を形成する。

オタクもそのひとつであり、SNSやネトゲー、ネトウヨ、婚活ネットなども、それだ。こだわりを持つ弧が、こだわりを共有し、集合することで、結果的に排他的になる。

カスタマイズを楽しみ、こだわりを共有し、それを楽しめるものであればいい。
だが、これがより密室化し、閉じていくと、弧の集合であるがゆえに、集合の中でのしばりが生まれる。

川崎での中学生殺人事件。地域でもよく知られていた不良グループがかかわっていることがわかっている。少年による集団暴行、殺人事件。それはこれまでにもあった。悲惨な事件だが、今回の事件は、いまのこの国の政治や経済の状勢、広がる地域間格差、地域内格差を象徴するような事件だと私は思っている。

かつて同様の事件があったとき、加害者が警察関係、政治的に力を持つ団体の幹部の関係者ということで特定や審判が遅れたり、処罰が緩かった事案が何件がある。

今回、少年犯罪ということで捜査当局はやたら神経質になっているようだが、これまで地域の問題としてあった不良グループに、警察も教育機関も、福祉機関もきちんとした対応をしていなかった反省をこめて、ただ処罰するだけでなく、その要因と実態と課題を示すことだ。

弧をつくり、弧が集合し、歪になることに目を背け、それを生んでいる地域、社会に責任を感じない、そこに最大の問題がある。それだけの問いが突き付けられている自覚に目覚めなさい。