秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

スポイルとスティグマ

パリの人質籠城事件や同時立て籠もり事件で、イスラム国への言論弾圧を含め、シリア、イラクでの支配地域での統制統治への批判が世界で高まっている。

この国では多くの人たちが対岸の、遥か遠い中東の自分たちには関係のないことだと考えているだろう。
 
関心を示したとしても、無法者集団、イスラームの狂信者程度の理解しかないと思う。それは、過激派=イスラーム原理主義という言葉をアメリカのネオコン連中が造語したように、イスラーム圏全体への偏見も生んでいる。

1989年ベルリンの壁が崩壊し、1991年ソビエトが消滅したときから、イデオロギーなき、混迷の時代がくることを良識ある人は予測できた。資本主義社会はその勝利を成熟化という形で示し、主義なき社会を担うものは、アメリカ一極集中のグローバル化だと信じた。

だが、その陰で、資本という富や成熟化とは程遠いところに、中東も、アフリカもあったのだ。それに乗り遅れまいとし、また乗り遅れない基盤があったのが中国。それは、世界に広がる格差の前哨戦だったといっていい。

富める国の者たちが、食糧も、エネルギーも、金融も、医療も、水など生活資源をも寡占化する。それでいながら、ごみにもしていく。もっといえば、性や臓器すらも商品化する。

低賃金と不安定な経済、生活情勢の中で、豊かさとほど遠い生活を送りながら、民族としての、国家としての誇り、宗派としての信念といったものが蹂躙される。倫理や規範、それを軸とする法も無化する。
 
当初は宗派間闘争だった闘いが、次第に、世界中にいる、グローバリズムから見放されている人々の受け皿、「聖戦」になっていく。大した理論武装のないまま、スポイル(隔離・隔絶)され、スティグマ(烙印)された者たちが、その憎悪のはけ口として、コピーキャット(犯罪模倣者)となる。

これは、単に中東の問題として片付けられることではない。
 
貧困と困窮は、人から尊厳を奪う。自己喪失は誇りや自信を人々から奪う。そして、寡黙な隷従を受け入れる。だが、その心底では、ふつふつと不信と憎悪が沸点を目指して煮えたぎっている。

イデオロギーなき時代のテロとはそのような基本的構造から生まれるのだ。

日本でも、現在の格差がより広がれば、こうしたテロ、もしくはそれに類する犯罪、事件は起きる。そして、起きている。土浦駅無差別殺傷事件しかり、秋葉原無差別殺傷事件しかり。ただ、それがイスラム国のような共同幻想としての宗派を根幹とせず、集合されていないだけのことだ。

そして、自らの生産を放棄し、開発途上国の資源をむさぼり続ける限り、そして、それが、今後より他国の資源を資本の論理で奪うことになれば、当然ながら、テロ対象国家になりえるのだ。

どのような社会においても、どのようなイデオロギー、宗教国家においても、平等社会などありえない。だが、だからこそ、スポイルとスティグマを政治・経済・文化においてやってはいけない。
 
それは、人権を行動原理とすることだ。個人の好き嫌いは仕方ない。だからといって、救済の基本にある人権を無視すれば、この国にも、イスラム国は誕生する。