秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

物真似と猿真似

映画でも、演劇でも、音楽でも、美術でも、舞踊、パフォーマンスでも。

私が心惹かれるのは、グローバルスタンダードではない。金太郎飴のようにロンドンやブローウエィ、ハリウッドの物真似の作品ではなく、自分たちが寄って立つ空間、自分たちが育んできた時間(歴史)、それらによって生み出される生理を持つ表現だ。

地方や地域にあっても、都会でやるようなそれらを亜流のように真似がちだ。だが、そこには魅力も、品格も感じない。

それよりも、風土に根差した民族芸能や祭事の際の伝統芸能の方にはるかに魅了される。そこには、土や海や地域の環境や食文化や継承によって引き継がれた精神と身体がしっかりあるからだ。

そこでしか表現できないもの、その人たちにしかない身体性の表現…。だからこそ、価値があり、他にない、できない魅力がある。

もちろん。芸事でも、学問でも、真似事はとても大事だ。

そのために、欧米の文化が持つ身体性や音楽を体得しようとすることは意味がある。しかし、それは、自らの身体が何を根拠として、そこにあるのかを確認させるものでもあるのだ。

世界の舞台で活躍するネイティブでない人々は、その葛藤の中で、自らの身体がぬぐい切れず持つ原点と直面し、それが消し去れない宿命であり、限界だと理解した中で、真似事から脱している。そして、それを世界が評価している。決して、捨て去ってなどいない。

よく考えれば、簡単なことだ。うまく真似ることで終わる人は、そこまで。ネイティブから見れば、所詮、真似事、亜流としかみえない。人々が見たいのは、それを越えるなにかだ。それはネイティブ同士でも同じ。越えたなにかを競っている。

自分が持つ、独特の身体的文化は、そのとき他にはない魅力になる。真似事の極地にそれが見えたとき、だれにもない、どこにもない、ただひとつのものを表現できる。

表現を投機の商品にして、世界の市場を舞台にする経済のマネーゲームにすれば、そうしたものが失われていく。むろん、ガラパゴスになってはいけない。

だが、世界、世界という前に、都会、都会という前に、世界に通じる本当の力は何なのか、自分たちの身体性、日本人というものの特質と弱点、限界をよく理解し、それを極めることで、世界に通じる道を歩まない限り、品格のない、虚勢を張った、物真似として、尊敬も信頼もされはしない。

それは、物真似でなく、猿真似だ。