秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

チューニング

私はテレビというものが家にもたらさせる風景の中で、幼少期を生きた世代の最後だ。その前はラジオが団欒やながら勉強、ながら仕事の主役だった。

私より上の団塊世代や少し下の世代が思春期から青春期、深夜放送に夢中になれたのは、おそらく、幼少年期にラジオを聴くということに馴染んでいたことと無関係ではないと思う。あの「世界中」のウォークマンの設定もその延長にある。

ラジオのチュー二ングは、未知な何かと遭遇する冒険のような感覚があった。

私の育った福岡では韓国や北朝鮮の放送がキャッチできたし、春日原・白木原・雑餉隈、板付(福岡空港)の米軍基地向けの英語のラジオ放送が入ることもあった。海に面した地域は、いろいろな電波を受信しやすい。

上智の外国語学部英語学科を出て、いまある大学で英語教授になっている高校の同級生は、その基地向けの英語放送のラジオにはまり、ついには、中学生のときから基地のアメリカ人から英語を教えてもらうようになっていた。

ちなみに、あの日本人離れした歌手のMISAも福岡の基地で英語と歌唱を学んでいる。

ラジオは、日常では出会うことのできない、異国や異文化の未知と遭遇させてくれる。それは通信し合えないものとのかすかなつながりを感じさせるわくわく感があったと思う。

だが、未知のラジオである限り、そこでは双方向の通信はない。電波をキャッチできるだけで、ビンに手紙を詰めて、海に流しているように、確かに、自分があなたたちの放送を聴いているぞと伝える術がないのだ。

人と人との通信とは、所詮、そのようなものでしかなく、その程度のものでしかない…私は、ラジオから、子ども心にもそんなことを感じていた。

友人やMISAのように、基地の中へ足を運び、自分は英会話を学びたい、歌唱を身に着けたいととアクションを起こさない限り、通信し合うということはできない。

しかし、だからといって、心を通わせられる通信が生まれる保証はどこにもない。英語や歌唱のスキルは学べても、人としてのつながりをつくるのは、それとは別のところにあるような気がする。

それでも、人はだれかと、なにかと通信したいとチューニングを探る。そして、なにかの電波を伝え、たまたまあったなにかがチャッチできれば、それで通信ができたことに安心する。

だが、また、それがビンに詰めた手紙のように、当てにならないものだとわかると、次のなにかにチューニングを合わせようと広く暗い夜の海を漂流するように、電波を探す…

誠実にそれに応えようとしている電波があっても、それは関係ない。誠実に電波をとらえようとしていた発信者は、結局、徒労を重ねているだけだ。

そのうち、さまようチューニングは、受信者からも、発信者からも、次々にチューニングを切られていくだろう。それでも人は、通信できるものを探して、生きている。

愚かしい。人迷惑だ。だが、それは、人というもののどうしようもない本質だ。

さて、私も誠実にキャッチしてくれる、迷いのない発信者を探して、チューニングをどこかに合わせてみよう…どこかに、きっと「世界中」があると信じて。