秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

成人式の君たちへ

たとえば、着物で言えば、辻が花より、小千谷紬や江戸小紋が好きだ。
 
辻が花も、小千谷も、江戸小紋も、着る人を選ぶ。しかし、辻が花は着こなしをごまかせる。辻が花の艶やかさ、華やかさが、着こなしよりも着物そのものに眼を釘づけにするからだ。
 
小千谷や江戸小紋は、その点、着こなしで着る着物。それは、所作ひとつにも現れる。だから、小千谷や江戸小紋は、生活の中の着物という位置をしっかり保っている。

だから、そこに深みと確かさが生まれる…だから、着る人の品格や性格までも映し出す。そこに味わいというものが浮き出てくる。
若く、美しいだけでは、それが浮き出ない。若く、美しいだけながら、辻が花でいい。

もちろん、若く、美しい人でも、味わいの浮き出る人がいる。辻が花でもそれが漂う若い人がいる。しかし、それは、やはり、その人の外見以上に、内面に、深みと確かさがどこかに潜んでいるからだ。
 
人の味わいというのは、一長一短でつくられるものではない。しかし、残念ながら、その人が生まれながらに持っているものの力が大きい。あるいは、その人の育ちの中で出会ったもの、培われたものが左右する。いまをどう生きようとしているのかの、その姿勢にもある。

味わいとは、確かさを知ることだ。深みを観る眼を持つということだ。
 
たとえば、九谷焼より古九谷。白磁(白薩摩)より黒磁(黒薩摩)。書き落としや油点の焼き物。備前織部にオレは味わいを感じる。室町から安土桃山期の屏風絵や襖絵の色彩にそれを感じる。

能楽の衣裳は、豪華絢爛。そう思う人が多いだろうが、そこに描かれる世界観は、徹底した仏教の無常観。無常観の世界は単色、無彩色だ。登場する人物が高貴な人々が多いため、衣裳が華やかにしつらえられているに過ぎない。だから、単にあでやかさを競う芸術ではない。

かといって、確かさを生む、人としての奥行や深さというのは、重厚で難しいものではない。ただただ、人々の、人生の、日常の、いのちのはかなさを知る力を持つということだ。
 
若さも美しさも永久(とわ)のものではない。あでやかさや華やかななものも、いつかは古びたものになる。時間に左右されない確かさにこそ、深みというものがある。

しかし、そうしたことを学ぶ機会と場が、オレたちの国から少なくなった。古典や伝統を教える大人も少なくなっている。
 
成人式。君たちがどれだけの深みをこの国で、これらの人生でたぐりよせられるのか…そこに、この国の未来がかかっている。
 
この国の、古典と伝統文化、芸術、歴史を学びたまえ。そこにこの国が進むべき道、世界に通じる道がある。