秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

モデルの不在

芝居は真似るから始まる。

世阿弥の「花伝書」に、物真似条々という言葉があるように、形を真似ることは芝居の学びの初歩にある人間にとって、決して恥ずかしいことでも、工夫のないことでもない。

逆に、それがない人は、基本を身につける場と機会を失ってしまい、いわゆる我流に走る。時として、それが異形に見え、異形ゆえの魅力となることもないわけではない。

だが、それも世阿弥は、所詮、「時分の花」、その時期だけの短い魅力でしかないと諭している。

花伝書」は、能楽の奥義をまとめた演技論、演出論だが、深く読めば読むほど、単に演技や演出の教えではなく、人の生き方、人生のとらえ方、人の世のあり方、そのものの書ともいえるものだ。

その人のように行動していみたい。その人のようになりたい。その人のように思考できるようになりたい。

成長の過程、人生の節目にそうした人物と出会えるか出会えないかは、人の将来にとって、大きな意味を成す。

いわゆる、モデルになる人物との出会いだ。物真似の奥義は、その人のようにありたいと試行錯誤するうちに、いつか、その目指すモデルが自分のものとなり、さらに、自分のものとなるだけでなく、モデルを土台に、いつか自分自身が新しいモデルを創造していくことにある。

ふと気づくと、その人のようにありたかった世界を越えて、その人にもできなかった、なかった何かにたどりついている自分に気づく。

それは、
いわば歴史の継承であると同時に、人から人へ、心から心へ、志から志へという願いや思いの継承であり、次へに渡すバトンなのだ。

何かのモデルを目指し、時分の花で終わるか、あるいは、モデルを真似るだけの亜流で終わるか。その端境期に、いくつもの誘惑や迷い、諦め、怠惰や驕慢がある。

凛として、そこに向き合い、モデルを真摯に、かつ貪欲に生きられるものが、道をたがえず歩き続けることができる。

私たちの社会は、もう何十年も、このモデルを失っている。モデル不在の時代を生きている。それは逆に、モデル足ることが難しい時代になっていることの証だ。

歪な豊かさ、中途半端な安定は、人からモデル足ろうとする力を奪う。また、あふれる情報の海に沈むと、モデルそのものの基準があいまいになる。モデルの存在そのものを否定する。

21世紀は、家庭であれ、社会であれ、国であれ、世界であれ、不在となったモデルを探し、惑い、迷い、翻弄される時代なのかもしれない。

世界のあちこちで、歪な、バイアスのかかったモデル探しが起きている。この国でも、政治も制度も、底割れしそうになりながら、虚勢を張り、ゆるぎないモデルであるかのように装う時代が続いている。

先の読めない時ほど、それが起きる。モデル足る人は、決して存在を誇張したり、大仰に、声高に主張はしない。

「見えざるが花なり」。それが世阿弥の奥義だ。それこそが、本当に世界を変える力だ。