秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ただの民の誇りと意地

だれでもそうだろうが…

私は少年時代から、そして、さらに年齢を重ねるほどに、勢いのいいこと、調子のいいことをいう人、直情的な人の言葉や行動は差し引いて受けとめるようにしている。

そうした人の言葉はほぼ口先だけであり、行動は大方豹変する。

平時にあっては、なんとか辻褄を合わせても、乱にあって、ほぼそれは人間の本質のようなものを露呈する。逆に、乱にあるときそうであっても、平時になった途端、都合のいい言動に変わる。

地位や肩書があっても、そうした人をたくさん見て来たし、世の中の中心には、そうした人が多いことも学ばせてもらった。

知識や学習をひけらかす人の言動も、それが本当にその人の生活実感や現実を伴っているものなのか、そこを見るようにしている。だが、浅薄なそれをひけらかす人がメディアなどの情報で珍重されていることもよく知っている。

知識や学習は、それが現実に関与でき、現実の前に無力であっては、何の意味もない。当面の現実に無力であっても、確かなそれは、必ず現実を無視せず、なにがしかの説得力を内包している。

社会貢献や地域貢献、よくある青少年健全育成、あるいは、私の仕事のひとつもでもある人権にからむことでも、あるいは政治や経済にかかわることでも、的確で、現実的で、それでいて普遍的な尺度でそれを語れない程度の人が、ありがちな正義や道徳をいうものだ。

それは、なんら現実に寄与しないし、ほぼ、貢献とは名ばかりで、人々のためではなく、自分や自分の周囲のためのそれだからだ。市井の人の方がはるかに現実に関与し、行動している。

仕事柄、著名政治家といわれる人や著名な〇〇という肩書を持つ方たちと出会い、識者やなにかの社会貢献にかかわる人たちとも仕事をしてきたが、勉強になり、刺激をくれ、この人とはこれからもつながりを持ち続けたいと感じた人は、数える程しかいない。

人は、いつもどこかで、新しい地平を求めている。理念を求めている。いまの視野とは異なる、より広い視野と出会いたい。そして、縛られている自己を解放する幸福感と出会いたいと思うものだ。

それがないという人がいたら、それはその人にいまの自分を打ち破る自己研さんへの意欲も謙虚さもない人でしかない。

あるいは、過去のなにかへのこだわりがあり、終わってしまった物差しや尺度がひとつしかない人たちだろう。もはやその物差しは永遠に続ない。だが、それが続くとしか思えない、その他の物差しで新しい道を歩むことを知らない、怖い人たちだろう。

その人たちが、いまこの国の政治と経済、地域をかき回している。たったひとつの終わってしまった物差しを振り回して。

この国が世界で一番輝ける、輝き方は、次のステージへ向かっている。それが理解できない人たちが時間を戻すためにいろいろな仕掛けに奔走している。

その犠牲になり、負担を被るのは、次の理念なんて、わかんなぁーいと投げている人やとりあえず、いまの生活が守られれば、他はいい。もっといえば、いま拍手、拍手喝采、自分たちの時代が来たと小躍りしている人たちだ。むろん、それに異議を唱える人も同じだ

民がひとつにならなければいけないとしたら、私たちはごくわずかな人たちを除き、すべてただの民でしかなく、民のために生きられるのは民でしかないという自覚に立つことだ。そこに誇りと意地を持つことだ。