秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

未明の運転手さん

未明の時間、夕刻からの積雪を心配して、事前予約ができなかったので、道路でタクシーを拾った。

予報に反して、夕刻以後からいままで、帰路に難渋するほどの雪はなかったが、やむことのない雪で、自転車を走らせなかったことは正解だった。

その個人タクシーの運転手さんとこれから雪模様になるらしいと気候の話をした。ひとくさり、そんな差しさわりのない話をし、会話が途切れた後、彼は、突然、こう切り出した。

「例のイスラム国の件…ひどいですよねぇ…」

私は、最初、あの殺害やその映像が公開されていること、イスラム国のテロへの怒りと非難なのだろうと思い、運転手さんは、許せない悪行だと語りたいのかもしれない。そう思った。

だが、しばらく話をしていると、どうやら、最初の「ひどいですよねぇ…」は、日本政府への批判も含まれているらしいとわかってきた。

「後藤さんは、本当に自分の意志だけで、手がかりのないイスラム国に乗り込んだんでしょうか…普通は考えられない。なにか政府やその関係機関からの依頼や協力要請があったんじゃないか…そう疑いたくなります」

「人質がいることがわかっていて、それを公表しなかったのは、人質の安全を守るためではないでしょう。衆議院議員選挙があったからでしょう。…まったく、ひどい話ですよ」

私は、「そうだね。そうだとしたら、確かに、ひどい話だよね…」と、あえて、深い話はしなかった。ただ、在留邦人の友人たちが、事件後、大使館からあれこれ行動制限、移動制限の通知がきて、ふざけるなって怒っているとだけ、伝えた。

テロ対策や安全指導は必要だ。だが、先般の事件を誘発した国の代表者の不用意いや、確信犯的な言葉が在留邦人もうそうだが、テロ対策費用やその手間を幾倍にも増やしている。当然、そこには、膨大な税金がつぎ込まれる。

今日は憲法改正の法案提出の日程について、自民党内で意見交換がされたと報道されていた。一連の事件への不明極まりない対応は、これを意図していたのではと疑念を持たれても仕方ない。

だが、たまたま乗り合わせたタクシーの運転手さんがいろいろなテレビ、ラジオ、新聞といったマス情報をえながら、決して、あいつを倒せ、あいつが悪いとイスラム国だけを血祭りに上げるのではなく、素直に、そうした疑問や疑念、そして、政府への批判的な意見を持っている…。

社会が危うくなるときというのは、なにかの事件や事故を契機に、一気に大衆心理が治世者が意図する方向へ傾くときだ。

いまテレビ報道をみていても、一部を除き、こうしたときだから、批判より前に国民が一丸となってテロと向き合わなくては…というマインドを国民に注いでいる。

あの太田光でさえ、サンデージャポンという番組で、番組に似つかわしくない真顔で、あれがいけない、これがいけないではなくて、こうしたときほど、みんながひとつにならなくては…と視聴者に語りかける。

あれはいけない、これはいけないということがいけない…それは、どういうことだ。

ここに至る検証やどうしてそうなったのか、どうしてそうするのかという基本的な議論なくして、テロの再発予防も、邦人誘拐とその後のあるべき対応の次の道すじも見えてはこない。にもかかわらず、テロへ取り組む現政権へ批判をするなといっているのと同じだ。

国民こそが、自らの安全と安心のためには、政治について、外交について、税について、福祉について、意見を交わし、発信すべき存在であって、それが国民主権の根幹にあるものだ。単に選挙権があるだけが国民主権ではない。

歪に傾斜した多数派の暴走は、必ず後の時代に禍根を残す。それは歴史が証明している。真の民主主義とは議論こそ、前提とし、そこで多数派ではなかった声を取り入れる、斟酌する、計量するところにあるのだ。

多様な意見、それはどのような立場の意見であれ、そこに現前と存在しなくてはいけないし、それが許されなくてはいけない。

少なくとも、そうできないと、私が乗り合わせた、運転手さんのような声なき声が聞こえてこない。それができないということは、いまこの国を支える、多くの名もなき人、声なき人を国民の数にいれてない、政治だということだ。