秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

大切なものはどこにあるのか

ああいえばこういう。こういえばああいう。

とかくに、人の言動に異論、反論、ツッコミをやる人は、そういわれる。どこかで、ぼくらは、人と違う主張、意見、考えを語る人に、うっとうしさや煙たさを感じ、スルーしたり、無視したり、ときには、排除したりしがちだ。

確かに、ここのところ、的違いな自己主張ばかりする人間やモンスターナントカが有象無象、平気な顔をして巷を闊歩している。見識や学習のないまま、心情や感情だけで物事をとらえ、あたかもそれが普遍的な正義のように主張する、手に負えない輩も増えている。

ぼくは思うのだけれど、いいかえれば、それは、筋の通った主張、意見、考えといったものを持たない人が増えているということじゃないのだろうか。

主張や意見、考えをきちんと互いが聞こう、知ろうとしないのも、「なるほど、そういう見方もあるね」とか、「そう主張するのは、きちんとした理論や理念があってのことなのだ」とか、「そう考えてしまう理由があったんだね」と、主張や意見、考えが違っても、聞く、知る根拠が見えないからだとぼくは思うのさ。

それは学びが薄いということになる。もっといえば、人類が長い歴史の中で失敗や過ちを繰り返し、不条理と向き合いながら、見つけてきた人道、人権、平等、平和、博愛、慈愛、互助といったものへの歴史認識や学習と知識が浅薄だからだ。

現実はそうなっていない。なっていないから、現実に即すのではなく、なっていないからこそ、それを求めていく。そこに、バトンを渡されている、いまを生きるぼくらの意味があり、後の世への使命がある。

どのような社会的、世界的課題においても、基本にはそれがなくては、浅薄な言葉の応酬になるだけで、理想を実現する歩みにはなっていかない。

感情や心情でものをいうことがいけないわけではない。個人的な事柄、自分がこうしてほしいという渇望や希望は、感情や心情から出るものだし、それがあって人らしい、人というものだ。そこは、自分がよりよく生きたいから、幸せでありたいからという人としての基本的な欲求がある。

けれど、社会のこと、世界のことをその水準で議論するのは、適当ではない。感情や心情に身を寄せるのはいいけれど、その基本にも、人道、人権、平等、平和、博愛、慈愛、互助がなくてはいけないのではないだろうか。

だってそうだろ。親が子どもを、子どもが親を、異性が異性を、場合によっては同性が同性を、仲間が仲間を大切に思う基本にそれがあるように、感情や心情で諍いや行き違いがあっても、その中で互いの折り合いや共にいるための道を探れるのは、相手の一番つらいところを感情や心情を越えて、わかろうとすることだからさ。

沖縄のヘリポート建設で反対派住民への差別発言が問題になると、反対派住民も公務員のつるし上げをやっているじゃないかと反駁する。だが、それは基本が見えていない。強い権力を持つ側とそうではない側を同じ土俵で議論しても意味はない。

問題は、なぜ、そうしたことが起きているのかを考え、議論することだ。

ぼくも、小学生の高学年になって、多少勉強ができるようになってから、それまで言葉にしなかった、ああいえば、こういうをやるようになった。それまでは、陽気にのんびりやっていけれど、自分の考えをわかってもらうには、きちんとした理念や理論、学びがいるのだということを知った。

ときどき、ぼくもはき違えて、ついああいえば、こういうになりがちだかれど、いつも人に残念な思いをさせたなぁ、傷つけたなぁと思うと、基本に戻って、自分をふりかえる。そして、もっと他者や周囲の人を理解しなくてはいけないと気づかされる。

それが自分の学びや広がりをつくってくれていると思うと、非難の応酬はやめにしようと思えるものだ。大切なものは、どこにあるのか。それを考える。そのために、たまにある、感情や心情のぶつかりは、いとおしい。

それは大切なものに気づけるからさ。