世界を見る眼
社会を意識する…が希薄になり、経済を意識する…が過剰になっていくと社会的な病理が増える。増えると同時に、多様化する。
ゆえに、先進諸国の多くの人が経済至上主義ともいっていい生活意識の中にあり、多くの病理を抱えている。
いうまでもない。国内における経済間格差、地域間格差、生活間格差が増大し、かつ階層が細分化されて、多様になるからだ。そして、経済至上主義は心の空洞とストレスを拡大していく。
そして、その心の空洞は経済が埋めてくれる。そう思う。それでしか幸福の尺度を持てないからだ。自分の経済的優位性、安定が優先され、社会がどうであるかは経済がどうであるかを凌駕する。
だが、まだ経済が不安定で、社会システムが脆弱であり、格差や貧富の差が二極対立構造のような国では、当然のように、社会を意識せざるえなくなる。
同じように貧しく、その同じ貧しさ、生活の不具合を大衆が抱えれば、それを改善できない、政治に不満があり、鬱屈が生まれる。それは当然、社会そのものへの関心と無縁ではいられなくなる。
戦後復興から高度成長期の終わりまで、この国で、権力と反権力の闘争がひしめいていたのは、そこの要因があった。だが、いい方をかえれば、権力側であれ、反権力であれ、共に社会を意識していたということだ。人々の意識が対立するにせよ。一枚岩でいられたからだ。
これをもう少し大きく考えてみたらどうなるだろう。そう。世界を意識する…。
同じ世界を意識するでも、最初にいった経済至上主義の先進国の側から世界を見るのと、そうではないのとでは大きく違う。
先進国の社会、つまり世界を見る目が経済を軸足にしていれば、当然、世界を社会的にはとれえない、経済としてしか見ない。自分たち経済至上主義にとって、有益であるか否かの基準でしかない。
先進国の社会、つまり世界を見る目が経済を軸足にしていれば、当然、世界を社会的にはとれえない、経済としてしか見ない。自分たち経済至上主義にとって、有益であるか否かの基準でしかない。
ところが先進国側からではない目で世界を見れば、先進国の経済至上主義による有益か否かは、自分たちが見る世界への蹂躙であり、暴力としか映らない。
先進国がつくってきた成熟への道は、マックス・ウェーバーの卓越した名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にあるように、イギリス・アメリカに代表されるプロテスタンティズムに大きく由来している。
富を得ること、富を強大にすることの正当性。当然ながら、そこには植民地支配や他国の傀儡化による支配、これに基づく、天然資源を含む資源の略奪、あるいは専有化。それが先進国から見る世界だ。
いま問題になっているイスラム国の誕生の根源は、パレスチナ問題だが、現実的には、9.11以後、アメリカがとったアフガン空爆、イラク戦争から生まれたものだ。
いま問題になっているイスラム国の誕生の根源は、パレスチナ問題だが、現実的には、9.11以後、アメリカがとったアフガン空爆、イラク戦争から生まれたものだ。
経済至上主義者のネオコンは、しなくてもいいイラク戦争によって、何をえようとしていたか。当時のブッシュの取り巻きにいた高官たちがオイルマネーにかかわり、枯渇しつつある自国の石油生産を補うために、イラクの油田を求めていたのは周知の事実だ。
最初のところで、紛争や戦争という暴力ではなく、仲介国を求め、経済という目ではなく、社会という目で中東との関係回復、改善へ向かっていれば、すべてとはいかないが、こうした先進国の大きく、重い、そして危険な課題を抱え込まなくても済んだかもしれない。
問題の根源は、イスラエル問題であり、パレスチナ問題ではない。にもかかわらず、この国の代表は、イスラエルとの同盟ともいえる軍事外交を推進している。
問題の根源は、イスラエル問題であり、パレスチナ問題ではない。にもかかわらず、この国の代表は、イスラエルとの同盟ともいえる軍事外交を推進している。
いつか大きな傷を体験したとき、この国の人々が彼はブッシュの再来だったと語る日が来ないことを祈ろう。
それを選択するかしないか…しているのは、投票にいこうがいくまいが、あなたたちだ。