秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

にぎわいはもういい

もう幾度となくいっていることをもう一度、いおう。

災害や事件、事故。予測できない不遇や不条理に巻き込まれたとき、いまやよく知られているようにトラウマができる。

災害や事件、事故といったものではなくても、両親の離婚、家族の死、離別、親しい人、愛情を傾けた人との離別は傷を残す。

これは、子どもであれ、大人であれ、共通のものだ。

社会から撤退しない限り、その傷と傷がつくりだす、悲嘆や悲哀、絶望や失望…それらが生み出す、自らの抑止しきれない感情、情動と向き合わなくてはいけない。

そのすり替え、代償行為として薬物やセックス、飽食、買い物、ギャンブル、飲酒…等々の依存に行く人も多い。

だが、大人と違い、子どもには、この代償が少ない。逆に、同じように心に傷を負った、大人や周囲の大変さを目の当たりにすると、だから、いい子にならなくては…親や周囲に心配をかけてはいけない…笑顔でいなくては…と自ら明るさを演技する。

だが、心の奥に抑えた傷と傷が生む歪な感情は、大人以上に強い力で抑制され、その圧力で歪さはより加速してしまう。大方、子どもの無邪気さ、いい子さらしさから、この内実に気づないことの方が多い。

私が震災から3年が過ぎた頃から、阪神淡路の例を出し、とりわけ、酒鬼薔薇聖斗を始め、関西地域で起きた「人が殺してみたかっただけ」という事件との関連性を警鐘したのはそのためだ。

今朝、宮城県出身の名古屋大女子学生の老女殺害事件が明るみに出た。例のエホバ証人の勧誘をしていた老女をナタで撲打した上、倒れたところを絞殺した。彼女は、今年、30代半ばになる酒鬼薔薇を尊敬し、秋葉無差別殺傷事件の死刑囚加藤に憧憬を寄せている。

参考人として聴取を受け、遺体が発見されたあと、多くのこうした動機不明の少年犯罪の子どもたちと同じように、大人しく、かつ淡々と自らの犯行の心情を語っている。

進学先の高校は別にして、中学は一般に伏せられているようだが、私の情報では、宮城の被災のひどかった海岸線の内陸地の中学校を卒業している。震災のとき、14、5歳。その後、一家は新築の家屋を建て移転した。生活の復興は形の上で成り立っている。

だが、震災から避難、家屋の倒壊や地域の流動化…そして、新しい学校での人間関係と家族に共通にあったであろう地域の人たちの死と離散の体験、そして、新しい地での葛藤…家族にも心の安定はまだだったはずだ。

その中で、心の中で、なにかが研ぎ澄まされ、歪な感情を増大させ、行為へと導引する圧力がどこかにあったに違いない。

私は震災直後からいわきを中心に福島の人たちに会い、東京へ生活を移した人も多く知っている。そして、その言動のどこかに、いまもそれぞれが深い傷を負い、同じように他の人たちとできない、いられない自分に苦しんでいるのだなと直感する人も少なくない。

堅牢なインフラの整備、復興住宅、生活施設の整備…あるいは、地域の商業や農水産業の回復、原発事故の賠償要求や政府、東電との団交もいい。

だが、それよりも、なによりも、人の心への手当てなくして本当の回復はできないのだ。物が売れればいい、地域に人がくればいい、あるいは、物を与えればいい、元気になってね、がんばってねといえばいいのではない。

小さな取り組みでもいいから、地域の人が物と金、権利主張に目を向けている間に、取り残されている子ども、大人、高齢者のための行動を起こすことだ。

もちろん。地元でそうした取り組みを名もなく、資金もない中でやっている人たちもいる。そうした活動や運動に、もっと行政や国政、人々の眼を向けてほしい。

地域の子ども子育て力はますます弱くなっているのは承知している。まして被災は地域を空洞化した。その現実を元気な装いにカムフラージュせず、いまある現実をしっかり伝え、語り合う場がいる。

私たちも自省を込めて、その取り組みを今年からスタートさせる。にぎわいはもういい。地に足のついた取り組みへ。