秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人こそ回復への道

精神科医の齋藤環氏と仕事をしていたあるとき、人が受ける心のストレスが話題になった。
 
そのとき、齋藤氏は、人との離別。それが死別ではなくとも、親しみ、愛情を傾けた合った人との決別がストレス度の中で、戦闘機のパイロットが受けるストレス以上ある…という話をしてくれた。
 
友人、恋人、夫と妻、親と子…。理由はどうあれ、その関係が切り離されるとき、人はもっとも大きなストレスを抱え込む。
 
災害のように、生死を分けるような離別の場合、生き残った側には、極度のストレスが襲い、生死を分けたのは自然災害による不可避の偶然だったとしても、その原因は自分にあったと考えやすい。

離婚した夫婦の子どもが、その離婚の原因を自分がいけない子だったからだと思い込むのも、同じような心の回路の働きによっている。

だが、これは生死の分かれ目を経験した当時者だけではない。その分かれ目の風景に居合わせた人々すべて、日常を喪失した人すべてに心的外傷後ストレス障害の種を植え付ける。

子どもの場合、この変形している自らの心のあり方を自覚することは容易ではない。大人ですら、心のバランスを維持するために、心の空洞や屈折を代償していかないと日常を維持できないほどだからだ。
 
自覚できない子どもは心に生まれた歪さを必死に隠そうとし、大人たちは、仕事などの日常により没頭することで、そこから逃避する。結果、心の問題は直近の解決課題として浮上しない。内部に抑え込まれているからだ。ただし、緊張を保ち、耐性を維持できる3年から5年程度の間は…。

生活のためのインフラの回復など、目に見える物や形は、時間がかかったとしてもいかようにも体裁を整えることはできる。だが、この心の中にできた障害は容易に回復できるものではないのだ。

まだ、仮設住宅も整備されていないとき、私が体育館など避難所を回りながら、直感していたのはこのことだった。

そして、それは阪神淡路から3年後、兵庫、京都、奈良など関西地域で起きた少年犯罪を通じて、私がすでに知っていたことだった。

いじめ、虐待、DV…。あるいはアルコールや薬物依存。それらの要因のどこかに、じつは、被災地や被災者ではなくても、こうした要素がある。
 
地域経済が体裁だけを保ちながら、じつは深く傷つき、生活の立ちいかない人々、精神的ゆとりを持てない人たちが増大している。そこにも、いまいった地域内、家庭内の問題が横たわっている。

傷ついた者が自らの心の障害に対峙することは容易ではない。だからこそ、それをサポートし、持続的にかかわる人と組織が必要になる。
 
復興予算や助成金は本来、そこにこそ、第一義的に傾注されなくてはいけない。人なくして、地域も、社会も、国も、次への道を歩むことはできないのだ。
 
今日、阪神淡路から20年。情緒や情感の回想ではなく、人こそ回復への道なのだと私たちは目覚めなくてはいけない。