秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

大事なゆとり

一昨日、広尾のMさんの店に年明け初の顔見せをしてきた。
とりとめもなく会話を楽しむ、遊ぶ時間。前から予定していたわけではないが、23日の件もあり、ついでにとメールしてふらりといってみた。
 
映画人やテレビ・舞台関係者、役者が集まる店と聴くと、この世界と縁のない人は、芝居や作品の話ばかりしていると思っているかもしれない。
 
確かに、そうした話題になれば、仕事がらみの会話にもなる。だが、プライベートな時間まで、それがやりたくて飲みに行く人間などいやしない。

おもしろい人間の話やエスプリやジョークの利いた話の方がなごむ。ネタ探しとネタ披露…。大人は、そうした話で十分盛り上がる。

私は元来、仕事の延長のような酒席の場が好きではない。仕事の人間関係がプライベートを侵食するからだ。仕事のことは、酒抜きで。本当に仕事ができる奴はそうするものだと30代の頃から思っている。
 
だから、それができる人も店も心地いい。
 
いつものようにとりとめもなく、Mさんと話していると、新聞をやめたという。そこで、情報をどう得るか…という話になった。

私はもう20年も新聞をとっていない。ネットで各紙の情報はえられるし、テレビもほとんどがドキュメンタリーと報道番組しか見ない。他に見るとすれば、特質したドラマか、映画くらいだ。
あとは、SNSからの情報。

ただ、そこには危険もあるよな…とMさん。確かに。
 
テレビや新聞には編集という作業が入る。情報発信のスペースが限られているからだ。そこに恣意性や計算が入る。場合によっては圧力も。だから、二次情報、三次情報には、リテラシー(分析解析能力)が必要になる。
 
だが、同時に、一次情報は、その信ぴょう性や客観性が問題になる。裏をとっていない分、二次、三次情報より危険なときがある。

要は、どのような情報を得るにせよ、情報を受け止める側にリテラシーが必要な時代だということだ。

どうもいまこの国では、多様な情報を受け止める、解析するという容量がなくなっている人が多い。最初からこうあるべきが優先し、そうではない考えや視点を拒絶する。
 
もちろん。自分の意見に強い確信や自信を持つことはいけないことではない。だが、だからといって、それが現実的であり、共感をえられるものかどうかは別の問題だ。
 
検証という作業がどこかでふっとんでしまうと、議論をすることさえできなくなってしまう。多様な考えや意見から学ぶということもなくなってしまう。
 
偏狭さや偏執的なこだわりは排除して当然だが、多様性は排除してはいけない。そこに、リテラシーの基本があるからだ。
 
仕事でもなく、なにか絶対の結論を求めるのでもなく、固執した趣味の話題だけでもなく、ランダムな話題と会話ができる…。カスタマイズされた弧衆化の中で、人は限られた人との狭い世界の中で、その大事なゆとりを忘れかけている。