秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

矜持のはじまり

20代の3人に1人、約4割近くが非正規雇用という現実がある。その一方、就職後3年で離職する若い世代は、大卒で3割、高卒で4割に及ぶ。

 
なにがしか、正規雇用につくこと自体、難関さを抱える人々がいる現実。そこには、複数の要因があるが、基本は、企業社会が持つ制度、しくみに、慣例に適合しない、あるいは、できない人間が存在することを示している。
 
同時に、艱難辛苦を乗り越えて、ひとつのポジションを獲得しながら、それを放棄する。ここにも、いろいろな動因があるが、基本は、一度容認しようとした制度、しくみが、いざ、働いてみると適合できない、あるいは、適合を拒絶されるということが起きているからだ。

先般の衆議院議員選挙の若年層の投票率の低さを非難する声があった。確かに、政治参加を最初から放棄する姿勢には問題がある。

しかし、厳密にいえば、政治参加そのものが制度やしくみの承認を前提としている。

制度やしくみからはじかれている人間からすれば、自分を受け入れてくれず、仮に、受け入れたとしても、後ではね返される、裏切られる、そのような当てにならない枠組に留まること自体、自己矛盾なのだ。
 
それが政治という制度やしくみの参加を無化していく。

いまの20代、30代の多くは、明確な決意や確たる生き方の目標というのが希薄だ。
希薄な分、情報に左右されやすく、また、情報が生み出す権力や流行に弱い。
 
みなと同じであるか、同じでなかっとしても、同じであるふりをすることで、身の安全を計ろうとする傾向が強い。

昨夜、お世話になっている東映の方たちと年2回、恒例となった事務所飲みをやっていた。10時を回った頃、福島の風評被害の話題になり、原発事故の収束、100年経たなければ、本当の意味で福島差別はなくならのでは…という話しになった。
 
それを口火に、入社後から知っている女性営業スタッフが社会参加や政治参加する若者の少なさと、社会は変えられないのではないかというディベートをふっかけてきた。

これまで仕事やプライベートなことでいくつか相談を受けたことはあったが、政治や社会の問題について、つっこんだ議論をしたことはなかった。
 
イデオロギーはじつは経済理論と一体なのだという基本的な説明にはじまり、成熟化社会が迎える多様性と過剰流動性が生む、不易性について、久々、マジになって語った。
 
もはや、左や右といった単純で、わかりやすい構造式で人の政治意識や社会意識を裁断できなくなっている。地域や社会、国、世界も測れなくなっている。その基軸なき社会、世界に、いまなにが必要なのか…
 
気付けば、零時になっている。時間を忘れて、本気でぶつかってきた20代後半の奴もえらい。

だが、よくよく聞けば、やはり、組織、企業というものに帰属し、社会生活を生きるためには、本来、自分が持っていたもの、制度やしくみになじまないものは、放棄していくしかないのか…社会人になって3年。その問いと葛藤を抱えていたらしい。

若い時期というのは、見える世界が狭い。そこに、明確な決意や確たる意志、目標がなければ、その狭さは、結局、目先の課題や目先の逃避へ心を向かわせる。
 
あったとしても、制度やしくみが持つ排他性と変わらない強固さを実感すると、それがくじかれる。
 
その狭間で、結局は心の奥で敗北宣言をして、本来あった、自分の生き方、考え方、進み方を脆弱なものだと否定し、鞍替えする。彼女はまだ、正直にその葛藤を言葉にできるからいい。だが、おそらく、言葉にしないまま、戦線離脱している連中は少なくない。

オレたちにできることは、いい歳しても戦線離脱せず、重たいと拒否されようが、また、うるさいと避けられようが、いうべきことをいい、いったことを確かに形にする、その背中、行動でしか伝えられない。
 
揉み手をして、おねだりしない。それだけが、矜持のはじまりなのだ。