秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

本当の教育

いろいろな場で社会的な問題や人権の問題について話をするとき、講演やパネルディスカッションのあとの質疑応答で、様々な質問や意見がある。

「いじめや差別、排除や暴力…いろいろな問題はあるが、人間には、それを回復し、乗り越えてえいく力があるのだから、それを育てるために、思いやりや互いへのいたわりといった気持ちを育てていく教育が必要じゃないかと思うのですが…どう思われますか?」

こうした質問はよく耳にする。質問者は、きっと心やさしい方なのだろうなといつも思う。そして、私はいつもこう答える。

「そもそも、人は、差別やいじめ、他者を排除する生き物です。もっといえば、人は人を殺す存在です。人間の本来性とは、その程度のものです。有史以来、人は人を排除し、差別し、蹂躙し、隷従させ、そして支配して生きてきた。それがなければ、人類の発展はなかったといってもいいくらいです。

理論や理念、理屈ではなく、人はあるスイッチが入ると、自己保存や自己の優位性を担保するためだけに、感情や情動といったものに簡単に身をまかせてしまう弱い生き物だからです。

だからこそ、人は人を殺さないための制度を設けてきたのです。戦争をしないためのしくみをつくり続けてきたのです。

それはいま現在も続いています。そのとき、その時代、そのときとの他者との関係性、他者そのものの変容があるがゆえに、人を殺さない、戦争をしない、差別や暴力にいかないために、常に、しないための制度やしくみを更新し続けなくてはいけないことを知っているからです。

それが人類の知恵であり、英知といわれるものです。

いま、ご質問された方は、とても心根のやさしい、いい方なのだろうと思いまます。しかし、人がそうした存在だと理解できば、なにをしなくてはいけないかが見えてきます。

平時にあって、特段の問題がない状況で、人をいじめてはいけません。人を傷つけてはいけません。差別してはいけません。そして、そのために、互いを思いやりましょう。そういえば、だれもがそうだとうなづくでしょう。ですが、それは言葉だけ、口先だけで終わっていることが少なくありません。

乱にあって、自分の存在やいのちが危ぶまれるときになって、なお、それがいえるか、そして、そうだと同意できるか。平時にあって、それを見越した教育こそ、差別や暴力、人が人を殺すという本来性を抑止する本当の力なのではないでしょうか。

大声をあげて、それに人が隷従してしまうことの快感があります。嫌いなやつ、気に食わないやつ、そういった自分の生理が受け付けないやつを排除して、みじめにすることにわくわくする感情があります。

ヘイトスピーチをやって、他者を侮蔑することが正義だと思い込むとそこにも、人をいたぶることの快感があるでしょう。

その闇に届くような、自分の心にある闇を自覚させる教育こそ必要なのではないでしょうか。思いやりやいたわりは大切です。ですが、それをいっていると、闇が見えてこない。自分の中にある闇にも気づけない。

見えない、気づけない人は、口先では、差別や暴力はいけないといいながら、いざとなれば、平気で人を殺すことも、排除することもできるようになるのです。

人間とはそうしたどうしようもなく、危うい存在なのだと知ることから始めれば、それをしないために、制度やしくみ、法によって強く、それを抑止していることの意味や価値…もっといえば、尊さにも深く気づけるはずです。

答えになっているかどうかわかりませんが、それこそが、いまこの社会、国にかけている本当の教育ではないでしょうか」