秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

福島を救おうプロジェクト -ありがたい…感謝の言葉を忘れるな-

いわき市内には20か所の避難所があり、約2000名の方が避難生活を送っている。
 
いま100名を切った、小名浜にある江名小学校の体育館には、一時、500名以上が避難していたという。どこにでもある、小学校の体育館。そこに500名もの人々が生活していたのだ。
 
海岸線の被災のひどさは、第一次福島を救おうプロジェクトの報告の中で写真でも紹介した。亡くなった方も少なくない。同時に九死に一生をえた…という方も。

街灯の鉄柱にしがみついて、4時間後に救出された方。津波の戻り波で、一旦波に飲まれながら、倒壊した家屋の屋根の上に戻された人…。また、そうした運に恵まれず、渋滞していた車道に津波が押し寄せ、車ごと海に呑み込まれた人々…

そうしたそれぞれの体験と記憶をかかえて、ほかの被災地域と同じように、ここ、いわきでも、避難生活を送る人々がいる。
 
話を聞いた、地元の自治会の区長さんが、「早くここから出ていかなければ…そう思ってます…」と口にした。
 
最初に出てきた言葉は、仮設住宅市営住宅など市が手配する宿泊施設をいち早く提供してもらいたい…という言葉ではなかった。
 
自分たちの縁故を利用して、自らの力で、避難所から出ていくべきだ…。オレにはそう聞こえた。
 
イメージ 1区長さんは、ここが小学校の体育館であるということをずいぶん気にかけ、子どもたちの学校活動の妨げになっている現状を憂いていたのだ。
 
被災しながら、周囲への気遣いを忘れない。容易にできることではない…と思う。
 
原発の避難区域から避難した人たちの一部が、声高に東電や政権を悪しざまに非難する。確かに、体育館のような場所で二カ月もの生活を余儀なくされたら、だれしも耐えらない。不満をぶつけたくなるのはわかる。
 
東電や政権の対応について議論も必要だろう。だが、自分たちがいろいろな恩恵をそこからうけ、原発の危険を選択してきた事実とも向き合わなくてはいけない。単に東電が悪いと罵声を浴びせ、被害者の殻に閉じこもる。それは、自ら自立しようという意欲を放棄し、阻害している。
 
「あれはいけません。いろいろと恩恵も受けてきたんです。感情をぶつけるだけ、批判するだけでは、物事はひとつも前に進まないんですから。どうしたらこの危機を乗り越えられるかを一緒に考え、行動しなくては、自分たちの生活だって回復できませんよ」。
 
自立なくして、復興なし。いままでのように東電や政権に依存してばかりではいけない…。そうオレには聞こえた。その思いが、自分たちも早くこの避難所から出ていかなくては…という言葉にもつながっているのだ。
 
カメラに群がる子どもたちの話を聞いてから、いわき市内でいま一番、避難住民が多いという四倉地区の避難所へ向かう。
 
 
イメージ 2
丁度、そば打ちを勉強する団体がボランティアでそばの炊き出しをやっていた。地元新聞社も取材にきている。避難者の多い施設には
こうした慰問がよくある。
 
しかし、少人数の避難所は、マスコミの話題にも上がらない。そのため、慰問やボランティアの数も少ないと聞いた。
 
 
いわき市の被災情報が東京、そして全国に伝わらなかったのも、マスコミや政治の力が、三陸海岸、岩手、宮城、そして、原発地域に集中したということがある。マスコミは、甚大な、膨大な犠牲を報道したがる。原発にいたっては、彼らにとって、格好のスケープゴード過ぎない。大手マスコミ自体がその恩恵を受けているからだ。

人々の涙を誘う悲劇。悲劇を乗り越える美談。そして、それに対比する悪役をつくり、大衆の眼をテレビや新聞に向けさせる…知性も教養もない、ありきたりの構図をつくり、マスコミは市民の味方なのだと正義を装う。だから、原発地域から避難した人々の態度や姿勢について意見を述べようともしない。
 
それによって、光のあたらない場所、地域が生まれる。その被災がどんなに悲惨でも、それに目を向け、真実にたどりつくこもできない。その軽薄な情報に、また、被災していない人々が踊らされる。軽薄な政権批判も、東電批判もそこから生まれ、ボランティア熱や支援熱もそこでつくられている。

体育館の中に入ると、共有のインターネットで調べものをしている小学生の女の子と出会った。話を聞かせてくれないかい? そう声をこかけると、こくりと小さく頷いた。その瞬間、この子には、思いがあると直感した。
 
震災後といまと何が一番変わったのだろう…ちょっと返事に困るかと思いながら、あえて、尋ねた。すると、彼女は言葉を選ぶようにして、こういった。
 
「いまが、ありがたい…そう思います」。
 
不自由な避難生活の中で、小学生の女の子は、オレの眼をみて、はっきりそういった。学校が再開されたとき、避難所からの通学でも、一緒にいられることがありがたくてしょうがなかった。抱き合って喜んだ。こうして一緒にいられることが、本当にありがたかった…。彼女は何度も、ありがたい…という言葉を口した。
 
いまでも、友だちと家族や親族、亡くなった仲間のことは話題にしないようにしているという。互いが傷つくことを知っていて、子ども同士の協定のように、わざとそうしているのだ…。いまは、ただ笑顔でふれあっていたい…それが、彼女たちにできる最大の互いへのやさしさなのだろうと思う。
 
「これから、どうしたい?」
彼女は、また、しばらく言葉を選ぶように沈黙して、答えた。
 
「みんなと力を合わせて、自分の町を立て直したいです…」
 
被災した小学生の女の子にわかることが、この国の人々はわかっていない。