秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

マスコミの使命のおわり

マスコミ、とりわけ、テレビや新聞は、それが登場したとき、大衆に迎合するものではなく、大衆にこれまで届かなかった情報を伝える媒体だった。

多くの人は忘れている。当時、テレビ・新聞を通して、人々は多くのことを学び、自分たちの考えや意見を形成できていた。それは、テレビ・新聞が単なる情報掲示板ではなく、情報の背景や背後にある、実相を見い出そうということに真摯だったからだ。

同時に、テレビも新聞も、それぞれの明確な主張を持ち、その主張に対して留保つきながら、なにがしかの強い責任意識を持っていた。それがあることで、マスコミ情報が金太郎飴のようになることはなく、かつ、軽薄な正義を大衆に押し付け、煽動することもなかった。

まちがっても、政府や官僚から流された情報をそのまま鵜呑みにすることはなく、また、これを報道すれば、話題にすれば、視聴率が上がるだろう…といった思惑や表層的なとらえ方でそれを報じることもなかった。どの報道番組でも同じニュースを同じコメントで流す…ということはなかったのだ。
 
また、テレビドラマは、その時代時代の人々の生活感情や生活意識と伴走していたし、社会にある矛盾、不条理、そして理不尽さややるせない思いを丁寧に描き、社会の出来事や社会問題と真っ向から向き合っていた。
 
コメディやバラエティの中にさえ、すべてとはいわないが、そうした要素を取り込み、いわゆるジョークとエスプリの利いた、知性や品格がどこかに漂っていたのだ。

いまや一部NHKをのぞき、こうしたマスコミ、とりわけテレビのあるべき姿を維持している放送局は地上派民報キー局にはほとんどない。あったとしても、BSなどへ移転させられている。

猪瀬東京都知事が猪瀬らしい傲慢さで他国の批判をした報道が流れたときも、それに明確に意見を述べる民報局はなかった。
 
それどころか、テリー伊藤などは、猪瀬が詫びを入れたのだから、もう終わったことで、いまさらそうした後ろ向きの批判をしているより、オリンピック東京開催のために、一丸となろうなどと報道をスルーする。

時の権力におもねてきいた人だからしょうがないといえばそれまでだが、テリー伊藤に限らず、大衆に対して、あたかも識者のごとく情報操作をやる輩がいまのテレビには氾濫している。

在日朝鮮人への誹謗中傷がふえている現実に、そういうことは即刻やめるべきだ…とはいわず、できるだけそうしたことは抑制するようにといった言葉の裏にあるものをそうした輩は暴こうとも、追及しようともしない。
しかし、よく考えてみれば、これまで原発推進の旗をふってきた自民党も、マスコミも一度たりとも福島第一原発事故について明確に謝罪を述べたことはない。東京オリンピック誘致についても、全局がその開催への期待のコメントを政府や東京都と一丸となって流し続けている。

多様な国民の声を吸い取り、多様な生活者や生活意識を拾い上げるのではなく、提灯記事と提灯報道にあけくれる、このマスコミの姿は、いったい何を意味しているのだろう。
 
いまやマスコミルートからではなく、YOU TUBEやブロガーたちの中から、スターや貴重な情報が提供されている時代に、明らかにマスコミは、その使命を終えようとしている。