秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

スリッパ

いい話を聞かせてもらった。
 
がんを患い、それが各所に転移して、5度に及ぶ手術を経験されている方がいる。抗がん剤治療もあり、定期的に入退院をいまでも繰り返す。
 
見舞いにいったSさんは、重篤な病気と手術、抗がん剤治療という痛みと苦しみにあるその方の入院が、少しでも心地いいものであれば…そう願ったのだろう。
 
Sさんのいる都下の豊田は、窓の外に目をやると、豊かな緑が広がっている。四季の変化をそこに感じ、また楽しむことができる。この時期であれば、見事な紅葉が広がる。心の慰めにもなる。
 
しかし、見舞いにいった病院は都心にあるため、病室の窓の外には、ビルしかみえない。

窓の外にもっと自然があればいいのにね…ふと、そんな言葉が出てしまった。
 
すると、その患者さんは、静かに首をふり、こういったそうだ。
 
「私ね。いまは何でも楽しいの。何度も入院しているけど、その度に、今度はどんなスリッパを持っていこうか…それを考えているだけでも楽しくなるの」。

あるときは、花柄のかわいいスリッパにしたり、また、あるときは、ちょっとおしゃれでエレガントなスリッパにしてみたり…それを楽しみにして入院しているという。

窓の外にはビルしかみえないけど、それをじっとみていると、若いOLさんの姿が見えたりする。すると、あの方に、彼氏はいるのかなぁといろいろなことを想像してみる。
 
また、働いている人の姿をみれば、がんばってねと心の中でつぶやく。
 
「何もないビルの風景だけれど、あのビルひとつひとつ、ここから見える窓のひとつひとつに、それぞれの方の人生がある…それを感じて、いろいろなことを思い浮かべるだけで、楽しくなるの」。
 
その患者さんは、素直な笑顔で、そうSさんに語ったという。

入退院を繰り返しながらでも、その患者さんがあとどれくらいの時間、そうした生活を続けられるかはわらかない。きっとご本人にもその覚悟や構えがあるのだろう。
 
だからこそ、ひとつひとつのことに喜びを感じ、それを楽しもうとする心が生まれているのかもしれない。先のことよりも、いまいただいている時間を大事にする。その積み重ねで、先をつくろとしているのだ。

36歳のときに、何の当てもなく事務所をひらき、いろいろな経験をさせてもらってきた。その折々、人通りの少なくなった都会の道を歩きながら、まだこうこうと明かりのつくオフィスの風景をみて、励まされたことがある。

いま、私のいるマンションオフィスの窓の外にも、私と同じように深夜まで灯りのつくオフィスの窓がいくつもみえる。
 
都会の明かり、ひとつひとつにいのちの営みとそれぞれの風景がある。住宅街の明かりひとつひとつに、それぞれの事情や暮らしがある。

それをいとおしいと思える人は、先をつくるための、いまという大事な積み重ねができているのではないだろうか。覚めた目と心…それがあると、ありがたさがわかるのかもしれない。
 
宮澤賢治にこんな言葉がある。「自分は勘定にいれず…」。