秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

言葉の投げ捨て

いまは地域によるが繁華街や街中でもタバコの吸い殻が眼につくほど落ちている場所というのは少なくなっている。

だが、ごみの不法投棄がそうであるように、だれかがタバコの吸い殻を捨て始めると誘われるように、そこにタバコの吸い殻が集まってくる。つまり、投げ捨てする人間が増えてくる。地域に偏りがあるのは、ひとつにはそうした場所であるかどうかが大きい。

こうしたことは、ごみやタバコの投棄だけではない。ごみやタバコの投げ捨てのように、人の感情を逆なでする、はき捨ての言葉や人の行動や発言、主張にまともな理論展開や議論ではなく、ただ感情的に侮蔑するような言葉を浴びせるのも、同じ言葉の投げ捨てだ。

ごみやタバコの投げ捨てが景観や公共の場で過ごす他の人々に不快感を与えるように、人々の心の景観を汚すだけのものでしかない。汚物だ。

そうした人が増えると、ごみの不法投棄もタバコの投げ捨ても同じように当たり前になり、人々から公共財を守るという心や公共性とはなにかを考える能力を低下させ、麻痺させていく。

そもそも公共財や公共性の意識が欠落しているから、そうしたことができてしまうのだから、哀れなことにそこではまともな議論が成り立たない。たちが悪いのは、その自覚が本人たちにまったくないことだ。自分たちは公共性があると思いこんでいる。

かといって、そうした人々がどうしようもない悪辣な人間かというとそうでもない。どちらかといえば社会的には脆弱で、対人関係においては器用とはいえず、精神的にはストレスに弱い人の方が多い。

私が日々暮らす、青山界隈や地元の乃木坂界隈は、比較的ごみの投棄やタバコの投げ捨てが少ない場所だと思う。

しかし、このところ、乃木坂の地下鉄駅近くや私のマンションの前の公道の分離帯になっている生垣のある場所がいつの間にか喫煙場になっている。

私も愛煙家のひとりなので、タバコを吸いたくなる気持ちはわかる。だが、喫煙が禁止されている場所で喫煙することはない。場合によってほぼ一日タバコが吸えないこともある。まして、投げ捨てなど論外だ。それは、そこが自分だけの場所ではないという自覚が常にあるからだ。

近在のビルに新しく入居した会社があり、どうもそこはビル全体が禁煙で、当然ながら社内も禁煙なのだろう。そこのサラリーマンたちの幾人かが公道の分離帯の生垣でタバコを吸い始めて、次第に、そこが喫煙場にされている。

ビルの管理人さんは頭を悩ませ、自治会が港区と警察に通報して対処をお願いしたが、道路に喫煙禁止の表示がされただけだ。

ビルの管理人が何度か注意したこともある。だが、聴く耳を持たない。持っていても返事だけで、後を絶たない。私も急ぎでないときは、投げすてをしないように注意している。だが、翌朝になると、投げ捨てのタバコが残っている。

朝になって、近在のビルの管理人さんたちがそこを掃除する。きれいになっているのに、そこでまた投げ捨てをやる。

会社では部下がいるかもしれない。上司や得意先とのやりとりで自分のぶつけたい気持ちをがまんしているかもしれない。仕事は有能かもしれない。友人や仲間にも恵まれているかもしれない。

だが、その分離帯の生垣に、そこがまるでだれが決めたわけでもなく喫煙していい場所と自分で決めて、灰皿も持たずに投げ捨てをしていく…

いつも思うのは、経営者が知ったらどう思うだろうということだ。

自分の経営する会社の社員が社内ではまじめなサラリーマンで、外で周辺住民が迷惑するような公共性のないことをやっている。経営者の恥と同時に、ともに働く会社の仲間、会社自体の事業にも差し支えることだ。その自覚がない。

多くの人は、だから喫煙者はダメなんだというだろう。ただでさえ、肩身の狭い喫煙者はもっと肩身が狭くなる。

そして、喫煙者だけの問題にされていく。そうではない。いまの世の中、喫煙しなくても、ここに紹介した公共性のない喫煙者のように、理論や理屈ではない、ただの情緒や感情にゆだねただけの言葉の投げ捨てをやる人間はたくさんいる。