秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

さらさらと骨太

明確にものをいい、信念を持って、発言する。そして、そのときどきの大事にあっては、心を込めて、思いを告げる。言葉にする。
 
そして、一旦、言葉にしたことには、あらん限りの責任を持つ。持てないときには、まず詫びる。言い訳よりも、責任が果たせなかったことだけを詫びる。だれかのせいにしたり、世の中のせいにはしない。
 
これは、格段、男の流儀でもなければ、なにか社会的に責任を負う人だけのことではない。
 
人として、当然のことであり、人としてあるべき姿だ。それができない自分だったとしても、そうあろうとする志は、だれにでも必要なことだと思う。

私も物を書き、それを舞台や映像にして、あるいはイベントにして社会に提供する人間のはしくれだ。
 
広く人に何事かを伝えていく上で、そうした骨太さよりも、さらさらとして、透明な感触のある言葉や態度の方が受け入れやすい場合があるということは知っている。そうなれない、それを受け入れられない人の心の屈折もわかっている。

作劇をするときには、そのように心弱い人やそうしたくてもできない人間のつらさや葛藤を描いてもいる。それがなければ、ドラマにも、作品にもならない。

だが、さらさらと、透明な感触ばかりを大事にし、そうした人の弱さを許し続けることはできても、物づくりはそれだけでは成立しない。
 
どこかで、しっかり、骨太な言葉や思いが軸としてなければ、結局は、さらさらと、透明な感触も描き出すことはできないのだ。

物事を明確にすることを嫌う風潮がある。いまに始まったことではない。人との関係を互いに都合よく曖昧にしておくために、あるいは、責任のとれない脆弱な自分を知るがゆえに、人は、骨太を避ける。

だが、それは、人をおろそかにするということだ。同時に、自分をおろそかにしているということだ。

おろそかにしながら、それに気づけないとすれば、それはバカだ。
 
投票日まで、あと1週間。私は、あいまいなさらさらした言葉よりも、骨太な言葉で選択する。

さらさらとは簡単にぶれる。骨太は簡単にはぶれない。信じられるのはどちからか。