そういう時代は終わろうとしている
たとえば仕事においても…
その場の仕事をその場限りで片付けるのか、そうではなくて、その仕事を通して、仕事のスキルを上げようとしてやる、仕事のデータを数年後まで、資料として残すことを頭においてやるのか…で、そのあり方は大きく変わる。
多忙であれば、ひとつひとつの仕事に丁寧に時間を割くのは限界がある。とりあえずの形で片をつける、あるいは、時間に急かれているから、この程度と折り合いをつける…というやり方をしていると、やっている仕事の中にある、こちらを育ててくれるトレーニングや次の人たちのための参考データというものが残せない。
つまりは、次へのステップとなる階段の一段がつくれなくなるのだ。それは、物事の継承をうまくいかなくさせることにもつながる。
いろいろな制約は仕事に限らず、何事にもついて回る。しかし、その制約の中で、しっかりと先のことを考えて物事に向き合うというのが、すべからく、肝要。
いまをおろそかにしたり、いまを大事にしなければ、次はない。
物事は寸断され、何のためのいまだったのかがわからなくなる。また、その場限りのことばかりを考えていると、時間が経過し、物事を取り囲む状況が大きく変わったときに、それに対応できる未然の引き出しも用意できない。つまりは、時が変わって、あのときのあれが、自らの墓穴を掘るということにもつながるのだ。
また、先のことばかりに心をとらわれていると、何ひとつ、いまから学ぶことも、身につけることもできない。毎回同じ過ちを繰り返し、目指していた、その先へなかなかたどり着けなくなる。
また、先のことばかりに心をとらわれていると、何ひとつ、いまから学ぶことも、身につけることもできない。毎回同じ過ちを繰り返し、目指していた、その先へなかなかたどり着けなくなる。
何事においても、流儀と作法というものがある。それをわきまえているか、わきまえようとしているかで、取り組んでいるもののあり方、姿も変わっていくということだ。
時間がないときほど、それを意識することが大事だ。
時間がないときほど、それを意識することが大事だ。
この国の政治や地域行政というのは、すべからくその流儀と作法を見失っている。しかし、それは政治や行政だけにいえることではなく、それをつくっているこの国の人たちの多くにあることなのだ。所詮、国のあり方というのは、その国の人々の民度が決定するのだから。
これから、政治の季節が加速するだろう。丁度、そのど真ん中あたりに、いまオレや仲間が取り組んでいる「福島・東北まつり」がくる。政党政治や政治家のくだらなさを批判して政治をよくしようという試みをすべては否定はしない。だが、もはや、そこを向くよりも自分たちの生活の中の、失われた流儀や作法を見直す試みの方が、幾倍も大切な気がしている。
生活も国のあり方も、自分たち市民の民度の高低でしか決まらない。家庭や地域をつくるのも市井の生活者ひとりひとりの意識のあり方だ。その集合が社会や国の姿でしかない。
生活も国のあり方も、自分たち市民の民度の高低でしか決まらない。家庭や地域をつくるのも市井の生活者ひとりひとりの意識のあり方だ。その集合が社会や国の姿でしかない。
大きな力や現実の課題の前に、人は確かに弱い。だが、だからといって、すべてを大きな力にまかせ、現実の課題はだれかが解決してくれること…そういう時代は、もう終ろうとしている。