秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

正々堂々

子どもの頃、周囲の大人たちから、しつっこくいわれた言葉がいくつかある。
 
そのひとつが「正々堂々」だった。ずるをするな。ごまかすな。そして、ウソをつくな。
 
なにかの問題や課題に直面したとき、あるいは立ち向かわなければならない何かを前にしたとき、きちんと正面からぶつかる。
 
そうすれば、たとえ、敗北したとしても、悔いは残らない。ま、男の喧嘩の作法や流儀を教えていたのだ。

それを確かめるために、その子にはこう問われた。
 
「恥ずかしくないのか?」「それで、自分に恥じるところはないんだな」
 
つまり、「正々堂々」は、「恥」の文化を背景としていた。
 
力のある者に頼り、その力をつかって勝負する。あるいは、眼の前にある問題や課題を当時者ではないように避ける、遠ざかる。正面からの勝負を避ける。
 
これも卑怯者とされ、恥じるべきことと教えられた。

ごまかしや詭弁を使わず、力のある者におべっかを使わず、自分の持てる力とすべてをかけて、立ち向かえ。
 
それは、勝負においてだけではない。
 
意図した悪意ではなくとも、自分の力不足や知力の足りなさ、工夫のなさ、未熟さから、周囲に迷惑や面倒、損失を及ぼすことも、世の中にはある。
 
そうしたときにも、自分を守るための言い訳やごまかしをせず、誠実に頭を下げ、そうなった経緯と事情を説明し、詫びる。これも正々堂々とだ。
 
卑屈になって自分を追い込んでも、解決策は提示できない。相手が納得できるかどうかは別にしても、正々堂々そうすることで、新たな道すじを相手にも見せることができる。

子どもの頃には、素直に入った正々堂々。

だが、成長し、大人になるにつれ、そうはいかない現実を人は知る。打算や計算、力を頼む方が楽だと覚える。ウソも方便となり、周囲や人を謀ることも処世術と思い始める。

器用に、うまく、上手に渡り歩けることが大人になることだと思い込む。そして、世の中に、詭弁とウソと駆け引きが当たり前になっていく。そして、いつか、人は、自分が正々堂々とは程遠い毎日を生きていることを忘れていく。
 
忘れるばかりか、自分は正々堂々、正義を生きているなどと自信満々になる。そうならなければ、自分がみっともなさ過ぎるからだ。

確かに、人は弱い。頼りない。邪さでいっぱいだし、清廉な人であることは難しい。自分がそうありたいと思っても、それが許されない局面も人生にはあるだろう。

私もそうだ。

生き方の作法や流儀、礼儀の基本に、それを忘れてはいけない。それがなければ、自分を振り返ることも、反省するということも、その反省から、よりよくあろうとすることも、できはしない。

弱いからこそ、未熟だからこそ、そして、こわいからこそ、正々堂々と、理想を求め、自分のあるべき姿で立ち向かえ。くじけそうなとき、私はいつもそう自分に声をかける。

あなたたちも、そうあって欲しい。