へそまがり
思春期を過ぎた頃からだ。この季節になると、人々の喧騒から、どこか自分が遠くにいることを感じるようになった。
私はへそまがりなのかもしれない。
せいので一つ事に人々の関心や動向が向いてしまうと、その群れた中にいることが落ち着かない。基本、みんなと同じは好きではないし、みんなと同じではない、なにかみつけたいという性分だ。
どこかで、人が同じ方向に向くとき、それは危いと感じている。
人が同じ方向を向くのは、根本的にひとつの大きな要因がある。みんなと同じか、同じようではないと取り残されるという不安だ。あるいは、排除されるという怖れだ。そして、私もみんなと同じだと思われたい、見栄と体裁だ。
どこかで、人が同じ方向に向くとき、それは危いと感じている。
人が同じ方向を向くのは、根本的にひとつの大きな要因がある。みんなと同じか、同じようではないと取り残されるという不安だ。あるいは、排除されるという怖れだ。そして、私もみんなと同じだと思われたい、見栄と体裁だ。
いわゆる、同調圧力。
そういう心情は、向いている方向がそれでいいのかという問いを失くさせる。そして、みんながそうなのだと誤謬する。ゆえに、その群れの中にいられない人、いれてもらえない人、その方向がおかしいということも見えなくなる。
立ち止まって、注視すれば、その人や時の流れから取り残されているものが必ずある。
立ち止まって、注視すれば、その人や時の流れから取り残されているものが必ずある。
それをみないようにして、ひとつ方向に気持ちを向ける。それは、ある意味、保身のためであり、せわしくひとつの方向を向くことで、いろいろなものに目を伏せているだけのことだ。
だが、取り残されているもの、置き忘れられているもの、見向きもなれないもの…そこにこそ、物事の真実がある。そのときのあるべき道理が見えてくる。
だが、取り残されているもの、置き忘れられているもの、見向きもなれないもの…そこにこそ、物事の真実がある。そのときのあるべき道理が見えてくる。
そして、問いが生まれる。自分は、私は、みんなと一緒でいいのか、いまの時間でいいのか、いまのあり方でいいのか…
その問いがあると、みんなと同じ方向を歩いていても、その歩き方が変わる。少し、方向を変えてもいいのではないかという声も出てくる。そして、ここに置き忘れられ、見過ごされているものがあると指摘できる。
人はそれをへそまがりというかもしれない。組織や集団、上司や先輩、えらい人がつくった常識に逆らうのかと非難され、冷遇されるかもしれない。
人はそれをへそまがりというかもしれない。組織や集団、上司や先輩、えらい人がつくった常識に逆らうのかと非難され、冷遇されるかもしれない。
だが、飴をなめさせられ、見捨てられ、置き去りにされているだれかを見捨てるくらいなら、そんな飴が何になるのだろう。どれほどのものなのだろう。
と、私は、このにぎわいと喧騒と慌ただしさの季節を迎える度に、思春期の頃から思っている。
だが、あなたと同じように感じている人、考えている人は、決して少なくはない。
そうも確信している、へそまがりだ。