秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

主客転倒

制度に依存する人と依存しない人とでは、世界の見え方が違う。
 
もちろん、良し悪しは別にして、ひとつの合意された制度があるがゆえに、人々はある基準とある定めとしくみの中で日々の生活ができている。
 
だが、基本、制度というものは人を縛るものであり、ひとつの合意というひな形に人をはめ込むものだ。また、それによってこそ、制度というのは維持され、運用・運営されている。
 
制度に依存するとは、その縛りやひな形を当てにするということだ。縛りやひな形に身を売ることで、その見返りとして、制度を利用する。
 
従って、制度そのものを疑うことはない。不満や不平をいったとしても、見返りとしてえられるものに依存するから、結局、ただの不満、不平であって、最後には制度にしっぽを振る。
 
制度に依存しないとは、その縛りやひな形を当てにせず、縛りやひな形のあり方そのものを疑い、場合によって、否定することだ。当然ながら、そこには、おいしい見返りはない。それどころか、制度の穴や間違いを正す、厳しい闘いが必要になる。
 
一番の問題は、制度は劣化するということであり、制度がだれによってつくられ、だれによって、だれのために運用されているかということだ。制度には、それをつくったもの、運用する者の恣意性が大きく働く。
 
だからこそ、そこに、様々な悪事がはびこることになる。恣意性は、思惑やさじ加減、胸先三寸の温床になる。制度のうまみをそうやって、人々が利用する。贈収賄や利権の専有化、既得権の形成…あるいは、選挙協力といったことなど、悪事のいろいろには枚挙のいとまながない。

政治屋や官僚、役人といった制度をつくり、制度を運用し、そこに恣意性を持てるものは、だから、高い倫理と使命感、そして、だれによって、だれのために運用されているのかという問いを忘れてはならない。
 
いうまでもない。政治屋も官僚も役人も、すべて市民の税金によって食い扶持を与えられ、養ってもらえっている存在でしかない。彼らがやるべきことは、生活に追われる市民の代行者として、制度をつくり、運用させてもらっているということを骨身にしみて知ることだ。

このあるべき関係が、戦後も、そして、現在も、主客転倒のまま続いている。それが制度劣化の大きな要因。

私が震災を機に、市民主導、市民の、市民による、市民のための地域づくりへと提言しているのは、しくみとしては現状のままだったとしても、これを強く市民自身が意識した地域、社会づくりを推進しなくてはならないと考えたからだ。

それは私の思いつきなどではない。世界がそこへと動いている。にもかかわらず、この国の人々は、依然として、市民主導ではない制度に依存し、自分たち地域や社会、国が陸の孤島のように、世界から置き忘れられていこうとしていることに気づいていない。