秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

リベラリズムの限界

格差とそれによる貧困が世界的な課題であることは、すでに明確になっている。若年層の雇用不安、それが導く治安の悪化…。所得の減少により、高齢者など福祉へ振り向ける行政資金の欠乏…この課題をどう乗り越えるか…その乗り越え方が、いま痛烈に問われている。
 
自分の度量や気迫、裁量や才覚、そして才能と努力で勝ち取った冨が、がんばった人間に集中するのは当然ではないか。自由主義とは、だれにでも公平にチャンスがあり、努力次第で、どのような人間でも豊かさを獲得できる。それを保障する社会なのだから…
 
そうやってつくられてきた資本主義の歴史とそれを支えた自由主義は、果たして正しかったのだろうか…。
 
富の獲得と集中は、この理屈でいえば、どうしてもある地域、ある場所、ある企業、ある人々だけに集中する。都市的なるものが常にそこに格差をまとうように、地方のある場所だけがつねに情報やセーフティネットから取り残されるように…

そもそも、富も資源とは同じなものなのだ。
 
たとえば、海での漁にたとえよう。大間のまぐろ一本釣りで良質のまぐろをとる人間と底引き網漁でまだ小ぶりのものも含め、ごっそり漁をする人間とでは、当然所得の差がある。
 
しかし、魚という資源は無限ではない。当然ながら、大物のまぐろを手仕事で引き上げる方がまぐろという資源は守られる。底引きで根こそぎまぐろをとれば、当然、資源は枯渇する。だから、冨をえたいだけえることのどこか悪い…という理屈は、実は、正しくはない。その冨の集中は、そうできないものがえられる冨をも奪っているからだ。
 
それを押し通せば、海から魚が消えていくように、いま豊穣な富をえているものも、いずれ冨をえられなくなる。失業者が増え、雇用不安が日常になれば、当然、生活苦からいろいろな犯罪も生まれれば、事件も起きる。社会の枠組からこぼれていく人々が生まれることで生産そのものをつくり出す人々が消える。
 
いたちごっこのように、ではと開発途上国に穴埋めをしようとしても、やがて、途上国もこの課題に突き当たる。富をもっと…と所得の配分の不均衡に意義を唱える人々が生まれるからだ。
 
冨の集中にあぐらをかくということは、それがいかに本人の努力の成果とはいえ、富の行き渡らない人をつくっていく。
 
つまり、社会資本というのも最初からパイが決まっている。だからこそ、銀行の融資審査があり、信用保証というものがある。だが、それも有効に資本を配分する仕組みでしかない。ゆえに、審査や保証のリスクを抱えるものは、低迷からの脱却ができない。
 
オレはがんばったんだから、お前らもがんばればいいじゃないか。確かにそうだ。だが、生まれたときから、高い教育を受けられる環境にもなく、かつ、周囲の人間関係などに恵まれなければ、スタートラインに立つことすらできない…というのが、実は現実なのだ。だから、機会は平等には与えられてはいない。
 
アメリカで格差に対するデモや運動が息長く、大きな規模で続いている。その中には、アッパークラスの人々も参加し始めた。いわく、「オレたちからもっと税金をとってくれ」。彼らの意志がどこかから出ているかはわからない。しかし、生活困窮世帯が国民の15%を越えた現実に、声をあげた。そして、その声は、さきほどのまぐろ漁のたとえをよく理解しているから生まれる声だ。
 
社会福祉が充実すると人は怠ける…そんな戦後間もない頃のような考え方で、いま世界を覆っている課題が克服できるわけがない。問題は福祉ではなく、動機づけなのだ。福祉をカットしたら財政が立て直せる。その短絡が根源にある問題をみなくさせている。数字は大事だ。だが、帳面通りに物事が解決するなら、こんな世界にはなっていない。

マイケル・サンデルが痛烈に資本主義の崩壊と自由主義の限界を説いたのは、もう5年以上も前のことだ。そこには、資本主義以後の目指さなければいけない、世界の姿が描かれている。共同主義社会の実現。それがサンデルが提言し続けたことだ。

自由主義をゆるす野放図な利益獲得主義は、世界の終りへ人々を導く。持つものも、持たざるものも、同じ限られた資源の中に生きる者同士、どう社会資本を配分し、共にそこにあり続けるかを模索しなくてはいけない。すでに、その動きが世界で
起きている。